見て分かる上海-皋蘭路の特別な趣き

 上海人の記憶の中の皋蘭路は、"盧湾区"と一緒につながっている。今では、黄浦区の通りとなった。 復興公園から始まり、西へ瑞金二路までの300メートルに満たない小道、当時の典型的な"フランス租界の小道"と言えよう。 

 

詩人の風格

 皋蘭路の建物は、過去数十年の間ほとんど変わっていない。

取り壊しや立ち退き、高層階の建物も無く、隣接の南昌路や思南路のような 様々な業種の小店もない。ただ静かに本来の姿を保ち続けているーー常に駆け回っているこの都市においては、特別な存在。

 

 皋蘭路は本来、高乃依路(Rue Corneille)と言っていた。1914年、フランス租界公董局(行政機関)が築造時に、フランスの著名な詩人高乃依(Pierre Corneille)の名前を用いた。

1943年、当時の政権が上海フランス租界を接収した時に、"文安路"と改名した。
おもしろい事に、中華人民共和国建国後、上海の路は次々と国内の地名で改名され名ずけられた時、この路の命名者は"高乃依"に最も似た発音の中国の地名ーー甘粛省の皋蘭県を選んだ。
1964年以降、"皋蘭路"と言う新しい名前を継続して、かつてのフランスの血統を暗示している。

 

皋蘭路一帯は旧式の庭園のある西洋館がたくさんある。


皋蘭路1、張学良旧宅の論争 皋蘭路が有名なのは二つの建築物がある為、1つは聖尼古拉堂、もう一方は交差点側の1号のスペイン庭園建築の"狄園"多数のマスコミと資料がこの場所を"張学良の旧宅"と称している。 言うところによれば、1934年張学良が欧州考察から帰国後、莫里愛路(現在の香山路)の洋館に住んでいた。しかも彼の護衛副将官は皋蘭路1号のスペイン式庭園洋館を借り上げ、趙四女史が付き添いに出向く時の住まいとして提供した。

 

皋蘭路16の聖尼古拉堂、まわりの古い洋館の中にひそみ、プラタナスに隠されている。
白系ロシア人、最初は彼らの多くは閘北区一帯に居住していた。上海最初のギリシア正教会は閘北にある主顕堂。しかしながら、民国16年に主顕堂は軍に占拠され、ロシア人がフランス租界へ移り住み始めたーーここにおいて、彼らの心の拠り所:新楽路と皋蘭路の二ヶ所のギリシア正教会。
1949年以降、大多数のロシア人は上海を離れ、19558月聖尼古拉堂が正式に閉鎖されるまで持ちこたえた。

1994年、上海市建築保護単位の公布を受け教会の屋根のドームが再建されたが、簡易なモザイク張りとなった。今は有名なフレンチレストランーー"Ashanti"が営業している。

 

皋蘭路27、ロシア人の伊万投資により建造されたドイツ式の建物で、後に揚州商人の高恰生が手に入れた。著名な書道家徐伯清は50年ここに居住していた。

皋蘭路28、もとは愛国人士銀行家の宋漢章の旧宅。宋漢章(1872-1968)19122月中国銀行の総裁時、当時の金融危機を彼は巧みに"空城の計"を用いて、金融危機に巻き込まれるのを回避した。その後、ここは上海市盧湾区の余暇大学の管轄下の印刷工場になった。2005年改造し、上海で名のある外国人向けの中国語学校"漢院"となり、日本、韓国、アメリカ、フランス、ドイツ等から数千人が中国語を学び、中国の文化を広めている。

皋蘭路29、かつてベルリン大学化学系博士李祖薫がロシア人から手に入れた、後に国民党の有名な将官衛立煌の住まいとなる。著名な映画俳優康泰が60年代末から80年第始めまでここに住んでいた。
 
有名人がつぎつぎに集まるが、長年に渡り皋蘭路は繁華のうしろに静かに隠れている。皋蘭路それ自体繁華であっても、その繁華は大げさでなく静かなもの。

空から見下ろすと、皋蘭路は後方が復興公園と連なっている、優雅な花瓶の様に、歴史の騒々しい俗世の中に静かに横たわっている。近くに行かないと、どういった落ち着きなのか気づくのは難しいかも知れない。

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