2016年1月19日付
(16年度No.3,通算No.361)
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蔡英文陣営が大勝した台湾選挙は“中国民主化”に何をもたらすか?加藤嘉一 【第68回】 2016年1月19日 DOL
蔡英文主席率いる民進党が大勝した台湾総統選挙・立法委員選挙の意義
台湾総統選挙・立法委員選挙において、蔡英文主席率いる民進党が躍進したことにより、今後中台関係はどう変わるのか Photo:REUTERS/AFLO
現在、台北の一角で本稿を執筆している。
1月16日に行われた台湾総統選挙・立法委員選挙において、蔡英文主席率いる民進党が躍進した。同氏は689万票(得票率56.12%)で初の女性総統に当選し、民進党は台湾立法院113席のうち68席(前回+28席)を勝ち取り、単独過半数を超えた。
一方、宿敵国民党の議席は35席にとどまり(前回-29席)、同党主席の朱立倫氏は381万票(得票率31.04%)で蔡氏に大敗した。台湾政治史において3回目の政権交代となった今回の選挙を経て、蔡英文総統当選人率いる民進党は総統府、立法院双方で実権を握る“完全執政”を展開できることになった。
本稿では、本連載の核心的テーマである中国民主化研究という視角から、今回の歴史的な台湾選挙が対岸・中国の“民主化”プロセスにもたらし得るインプリケーションを3つの観点から書き下しておきたい。ここで、私があえて“歴史的”という言葉を使うのは、中台関係が経済・人文面だけでなく、政治的にも“促進”されているかのように見える状況下における国民党の大敗、および華人社会で初めて民主化を実現した台湾が、今回の選挙を経て、華人社会で初めて女性総統を誕生させたという文脈を意識するからである。
なお、本稿はあくまで同選挙が中国共産党統治下にある対岸の政治動態に与え得る影響や要素に絞って議論を進める。したがって、なぜ国民党が大敗したのか、なぜ民進党が躍進したのか、蔡英文という政治家はどんな人間かといった内政的要因、あるいは同選挙がアジア太平洋地域の地政学にもたらし得るインパクトは何かといった外交的要因には原則触れず、別の機会に譲ることとする。
1つ目の議論に入る導引として、拙書『中国民主化研究』(ダイヤモンド社、2015年7月刊)の第三部「外圧」第12章“台湾と中国人”で指摘した、次のパラグラフを引っ張っておきたい。
若者世代を中心とした台湾人は、「中国とこういう付き合い方をするべきではないか」「中国と付き合う過程で法治や民主の枠組みを着実に重んじるべきではないか」といった市民としての欲求を訴えている。中国との付き合い方という文脈において、法治・自由・民主主義といったルールや価値観を守るべく、市民社会の機能を駆使しつつ、自らの政府を徹底監視し、自覚と誇りを持って奮闘する過程は、対岸の中国が民主化を追求する上でポジティブな意味合いを持つ。
なぜなら、台湾が中国と付き合うなかで、政治体制やルール・価値観といった点で中国に取り込まれる、すなわち台湾が“中国化”していくことは、中国共産党の非民主主義的な政治体制が肥大化しながら自己正当化する事態をもたらし得るからだ。その意味で、同じ中華系に属する社会として、民主化を実現した歴史を持つ台湾、そしてそこに生きる人々が果たす役割は大きい。(394~395頁)
1つ目のインプリケーションは、「今回、国民党の大敗および民進党の躍進という形を以て幕を閉じた台湾選挙は、中国共産党の統治プロセスに健全で動態的な圧力を加えるという意味で、ポジティブな長期的インパクトをもたらす」ということである。
今回の選挙を対岸の中国共産党指導部は、一種の諦念と最後の期待を抱きつつ眺めていたであろう。選挙キャンペーンにおけるかなり早い段階から蔡英文の勝利が予想されており、焦点は立法院における議席数に向けられていた。国民党の朱立倫は「そもそも当て馬で、彼のミッションはあくまでも立法院で民進党に過半数を取らせない」(国民党幹部)ことにあった。結果は見ての通りである。これから“完全執政”する民進党と向き合っていかなければならない共産党指導部の諦念は緊張に、期待は失望に変わったに違いない。
俗に“中国寄り”と言われる国民党政権は、昨年11月にシンガポールで馬英九・習近平会談を実現させた。センシティブな政治的課題を巡って立場や認識の相違が存在するなかで、両岸指導者を向きあわせた根拠は、「1つの中国」政策に関する“九二コンセンサス”と呼ばれる産物であった(同会談および九二コンセンサスを巡る両岸の認識ギャップについては、連載第64回「習近平・馬英九会談実現の背景にある動機と懸念」参照)。
中国に対する健全な圧力の発生、「九二コンセンサス」はどうなる?
一方で、俗に“中国とは距離を置き、中国との関係構築には慎重・強硬的になる傾向がある”と言われる民進党は、九二コンセンサスを認めていない。そして、私が判断するに、蔡英文は5月20日に総統に就任してからもこのコンセンサスを(少なくとも公に)認めたり、支持したりすることはないであろう。「両岸は共に1つの中国に属し、台湾は中国の一部である」という定義を加える中共側のスタンスに、「台湾の国号は中華民国であり、台湾は自由民主主義を擁する国家である」という認識を持つ民進党サイドが同調する可能性は、限りなくゼロに近い。
もっとも、両岸関係を安定させることを(この点を呼びかける米国との関係維持という観点からも)重視する蔡英文としては、九二コンセンサスを公に否定したり、それに反対したりすることもないであろうが。
いずれにせよ、少なくとも政治的に見れば、蔡英文・民進党サイドとの関係づくりに中国共産党は悪戦苦闘するに違いない。台湾選挙の前後、蔡英文陣営の動向を追っていたが、同氏は随所で台湾が自由と民主主義を重んじる“国家”であることを呼びかけ、「尊厳、団結、自信を持った新しい台湾」の到来を告げていた。たとえば、次のセンテンスには、私から見て、蔡英文が政治体制や価値観という観点から中国を牽制し、かつ中国と台湾が“異なる”ことを暗示する姿勢が如実に体現されている。
「私たちは国際社会に対して改めて告げた。民主主義の価値が台湾人の地に深く流れていることを。民主主義に基づいたライフスタイルが、2300万人にとっての永遠の堅持であることを」(1月16日、選挙結果が出た後の国際記者会見にて)
往々にして自由民主主義を持たず、人権を軽視したり、国民の自由な言動を抑圧することを以て国際社会、特に西側社会から批判される中国共産党としては、自らが政治的に関係を維持・発展させたい対象である台湾の新しい指導者からこのように告げられることは、圧力になるかどうかは別として、少なくとも心地よくはないであろうし、警戒心や嫌悪感を強めるであろう。それでも、「両岸関係を安定的に発展させること」は台湾にとってだけではなく、中国にとっても対米関係を安定的にマネージする上での政治的基礎になる。仮に中国が台湾を武力で“解放”などしようものなら、米中関係は極度に悪化するであろうし、中国は国際社会から制裁を受けることになる。
したがって、習近平国家主席率いる中国共産党としても、蔡英文率いる民進党との関係を安定的に推し進めていかざるをえない。この一点に関して、私は“健全な圧力”という解釈を加えている。中国共産党が異なる政治的スタンスや価値観を持った相手と良好な関係を構築していくことはポジティブであるし、それは“The Great challenge”になるであろう。
視点を転換して現状や展望に考えを及ぼせば、民進党という俗に対中強硬的と呼ばれる相手とも良好な関係を構築できれば、それは中国共産党が国内外で少なくとも以前よりフレッシュなイメージを与えることになるに違いない。私は、そのプロセスは中国の広義における国益に符合すると考える。
中国とどんな距離感で付き合うか?市民社会の成熟度を感じる選挙結果
2つ目のインプリケーションは、「華人社会初のデモクラシーである台湾が、その公正で自由な選挙を通じて政権交代をしたという事実は、台湾の政党政治の成熟性という意味からもポジティブであると同時に、今回多くの小さい党が出現し、一部が台頭したという事実は台湾における市民社会の成熟性をも示している」ということである。
このインプリケーションの重心は中国と同じ“華人社会”である台湾の政党政治と市民社会が民主主義を発展させるという文脈のなかで、成熟度を向上させたことに見い出せる。
そもそも、この現象を生み出した根本的な背景は良くも悪くも“中国の台頭”にある。中国が不透明だが着実に台頭する過程において、国民党は警戒心や恐怖心を強める台湾市民の心情を考慮して中国とは適度な距離を置かなければならない状況に直面し、民進党はそれでも中国との関係を重視する台湾市民の利益を考慮して、中国に適度に近づかなければならなくなる。
要するに、「中国とどのような価値観を持ってどのような距離感で付き合うか」が最大の焦点である台湾の政治が中道的になっていく傾向が、近年生まれている。それはそれで現状として受け止めるべきであるし、今回蔡英文は自らの政治的スタンスを若干中国寄りに修正したことによって(具体的には“九二コンセンサス”を承認はしないが反対もしなくなったこと)、“中間層”を取り込むことに成功したと言われている。逆に国民党は中国との距離の取り方に“失敗”し、先行きが見えない経済情勢も重なって惨敗した。
そんな中、“政治の中道化”に満足できない、どちらかと言えば極端な政治的立場・主張を抱く人々が新たな政党を設立し、今回の選挙に挑んだ。そこには、台湾の国家としての団結を掲げる「台湾団結連盟」や、中国との統一を掲げる「中華統一促進党」などが含まれるが、何と言っても注目すべきは、2014年3月、国民党政権が中国とサービス貿易協定を拙速に締結することに学生や若者が立ち上がり、反対した「太陽花学生運動」(日本では「ひまわり学生運動」とも呼ばれる)のリーダーたちが中心となって結成した政党である「時代力量」の躍進である。
民進党が側面的に支持してきた同党は、今回5つの議席を獲得している。この結果は、国会運営を有利に進めたい民進党にとっても追い風となるに違いない。そして何より、「時代力量」の台頭は、台湾が中国との付き合い方というバッファー(緩衝地帯)を通じて、若い世代による市民運動が民主政治に実質的かつ直接的なインパクトをもたらしたことを意味している。
もう1つ指摘しておきたいのが、国民党陣営(俗に“藍”陣営と呼ばれる)でもなく、民進党陣営(俗に“緑”陣営と呼ばれる)でもない、両党の対立や争いの超越を訴える“第三勢力”として、親民党の宋楚瑜主席が157万票(得票率12.84%)を獲得し、2012年時の36万票から大きく躍進した事実である。
この点も、「藍と緑という2大陣営という枠組みでは、多元化する利益や価値観の欲求、とりわけ若年層のそれを体現できなくなっている」(国立台湾大学・何明修社会学教授)台湾政治が、これまでの枠組みを超えて、市民たちの多元化する欲求をより立体的に反映する形態に近づこうとしている現状を示すインディケーターであると、解釈できるだろう。
対台湾ナショナリズムはなぜ中国の民主化にとって不利なのか?
そして3つ目のインプリケーションが、「中国で不健全に蔓延・高揚する対台湾ナショナリズム、およびそれに対する共産党のガバナンス力の欠如と脆さは、台湾社会・市民、特に若い世代の対中感情を悪化させ、両岸社会が真摯に向き合い、付き合うプロセスを阻害し、結果的に中国民主化プロセスにとって不利に働く」ということである。
台湾選挙の前日、台湾の有権者を震撼させた「周子瑜事件」がこの点を赤裸々に露呈している。
韓国のアイドルグループ「TWICE」で活躍する台湾の周子瑜氏が、韓国のテレビ番組に出演した際、韓国の旗と台湾を実質的に統治する中華民国の旗を掲げた。その後、中国で活動する他の台湾人タレントに「台湾独立派」であると公に“告発”され、同グループが中国で予定していたテレビ出演がキャンセルされるなどしていた。
中国における経済的利益を守るためだったのだろう。事態を憂慮した韓国のプロダクションが、台湾選挙前日の1月15日にあるビデオを公開した。そこには、弱冠16歳の周氏が、両手で1枚の用紙を握りしめ、そこに視線を落としながら読み上げ、「中国は1つしかありません。海峡両岸は一緒なのです。私はいつも中国人であることを誇りに思っています」と言って謝罪する、うつろな姿が映っていた。
様々な憶測または“陰謀論”が交錯していることもあり、詳細や背景については触れないが、結果的にこれを見た台湾の有権者、特に「台湾がそもそも自らの政府、領土、国旗を持つ主権国家だと信じて疑わない環境で育った若者たちは、海外で中華民国の国旗を掲げることすら許されないのかという驚きと怒りを覚えたのは間違いない」(台湾行政院スタッフ)。
私は、この事態が選挙前日という微妙なタイミングで起こったことにより多くの票が民進党に流れた、と言われる政局よりも、これによって、これまで国民党が自らの政権的基礎、中国共産党と関係を構築する上での政治的根拠としてきた“九二コンセンサス”というロジックが実質崩壊し、両岸が政治対話を促進する上での辻褄が合わなくなる可能性のほうが重要だと考えている。国民党は九二コンセンサスを掲げる過程で台湾の有権者たちを「一個中国、一中各表」、つまり、「中国は1つだが、各自がそれぞれに述べ合うこと」というロジックで説得してきた。
ただ、今回の事件によって、「台湾は中国と付き合う過程でいかなる場所でも中華民国の国旗を掲げることが許されない」=「それぞれが述べ合うことが許されない」という印象や認識が台湾社会の間で広がってしまった。台湾でテレビや新聞、インターネットをチェックしていたが、まさに1月16日前後は、選挙そのものの動向を伝える報道以外は「周子瑜事件」一色という具合であった。蔡英文も、この事件を受けて、勝利演説において、「この国家を団結させ、壮大にさせ、対外的に一致を図ることが私にとって最も重要な責任である」と主張した。これから、蔡英文はこれまでよりも中国に対して警戒的・敏感的・抵抗的になる世論をバックに、対中政策を進めていかざるを得なくなるということである。
何がこの事態をつくり上げたのか?
私が判断するに、まさに中国国内で排他的・攻撃的・狭隘的に高揚するナショナリズムであり、それを前に立ち往生し、体制内で健全な対応策を打てずにいる中国共産党の在り方である。実際に、対台工作を担当する中国国務院台湾事務弁公室は、この事件を受けて相当アップセットしていた。
「当然、我々が望む事態ではない。両岸関係を壊しかねない事件だ」
1月16日の太陽が沈む前に、同弁公室の幹部は私にこう語った。
「周子瑜事件」が投げかけた教訓、中国共産党に求められる選択肢
それでも、中国のインターネット上では周氏を「台湾独立派」と非難する世論が収まらない。それに対して、台湾ではそんな“中国”の状況に反発する世論と、台湾人としての尊厳を打ち砕かれたというショックが収まらない。そして、「両岸は1つの中国に属する。台湾は中国の一部である」というロジックで国内的にプロパガンダを進め、それを武器に台湾との政治関係を発展させてきた中国共産党は、目の前にある事態に対して何もできない。間違っても「いや、実は台湾では異なる解釈が存在する。対岸には対岸の言い分がある」とは言えないからだ。
「じゃあなぜ習近平は馬英九と会ったのだ? 根拠は九二コンセンサスだったのではないのか?」という民衆からの逆襲をくらうことになってしまう。私から見て、中国の“有権者”たちは聡明で、頭の回転が早く、身の回りの事態に常時クリティカルに反応する習性を備えている。
中国共産党指導部には、自らの核心的利益である台湾問題を安定的にマネージするという観点から、国民に“真実”を説明し、国内で高揚するナショナリズムを真っ当に緩和させていくという選択肢も理論上はある。仮にそれでも世論が収まらない場合、残された退路は、“担当者”が責任を取るべく辞任し、日本で言うところの内閣を改造することであろう。政権の正統性は、そうやって未来に引き継がれていく。
ただ、中国共産党にそれらの選択肢はない。
2016/1/16
日本経済新聞 電子版
【北京=大越匡洋】中国が主導し、57カ国が加盟した新たな国際金融機関、アジアインフラ投資銀行(AIIB)は16日、北京の釣魚台迎賓館で開業式典を開いた。習近平国家主席が出席し、「中国はさらに多くの国際的責任を負う」とあいさつした。中国を軸に運営する初めての本格的な国際機関だ。アジア域内のインフラ支援をテコに、米国を中心とする既存の国際金融秩序に挑む。
開業式典であいさつする習主席(16日、北京)=共同
AIIBは資本金1千億ドル(約11兆7千億円)で、北京に本部を置く。昨年12月25日に正式に発足した。初代総裁に選出された金立群氏は「AIIBはインフラ整備を通じて経済社会の改善を促す」と式典で述べた。今回、18日までの日程で初めての総会や理事会を開く。
習氏が2013年10月に創設を提唱してから、わずか2年余りで実現にこぎ着けた。米国、日本は参加を見送っているが、英国、ドイツ、フランスなど欧州勢がこぞって創設メンバーとして加盟を決めた。中国が最大の出資国で議決権の26%を持ち、重要な案件での事実上の拒否権を握る。
中国に次いでインド、ロシアが第2、第3の出資国となり、「新興国を中心とする国際機関」の体裁を整えた。アジアの交通、電力、水利などインフラ整備を支援する。第1号の融資を巡って世界銀行やアジア開発銀行(ADB)など既存の国際機関と協調融資の協議を進めており、今年春から夏にかけて第1号の融資の実施をめざす。
初年度の融資規模は20億ドル程度を見込むが、資金調達が課題の一つだ。日米が入らないAIIBが格付け機関から最高格付けを取得できるかどうか不透明さが残る。格付けが低ければ、債券発行による資金調達コストは増す。一方、格付けの取得までに時間がかかるため、早期の融資実行をめざすAIIBは韓国など加盟国の金融機関から直接、資金を調達することも視野に入れている。
初代総裁の金氏は昨年11月、日本経済新聞などに対し「さらに約30カ国が加盟を希望している」と話した。日本や米国に対しても、引き続き加盟を呼びかける構えだ。
2016/1/20 日経Net
小林製薬がインバウンド銘柄に変身している。訪日観光客は2015年に1973万人と過去最多になった。1人で20個、30個とまとめ買いする中国人の「爆買い」はインバウンド需要の象徴となり、幅広く企業業績を押し上げている。ユニークな商品開発で知られる小林製薬も、実は中国人からの支持が高い。インバウンドを追い風に2016年3月期の純利益は過去最高になる見通しだ。この勢いは続くのだろうか。
小林製薬の商品は中国人に人気だ(大阪市のツルハドラッグ戎橋店)
昨年11月末、大阪市の心斎橋筋商店街は、買い物をする訪日客でにぎわっていた。ツルハドラッグ戎橋店は、ほぼ半分の客が外国人だ。英語だけでなく中国語の商品説明が目立つ店内では、中国人の客が小林製薬の「熱さまシート」と液体ばんそうこうの「サカムケア」の写真を店員に見せて、商品を求めていた。
「12の神薬」というリストがある。中国人が日本を訪れた際に必ず買うべき医薬品をまとめたもので、訪日前の情報収集に使うメッセージアプリや短文投稿サイトで広がった。ここに載っているのが熱さまシートとサカムケアだ。
熱さまシートは冷却効果が長く続く品質の高さが人気の要因だ。サカムケアは現在、購入者の7割が外国人で、中でも水仕事が多い中国で重宝されているという。ネットでは写真や動画で説明され、「日本製なので効果が信頼できる」「中国にない面白いアイデア商品」と高い評価を受けている。
この2つだけではない。12の神薬のうち5種類は小林製薬の商品が占める。消炎鎮痛剤「アンメルツヨコヨコ」と角質軟化剤「ニノキュア」、女性保健薬「命の母A」で、どれも中国には類似品が見当たらず、希少性から人気を集める。
高まる人気を受けて、小林製薬の小林章浩社長は「訪日客の取り込み策を強化する」と意気込む。サカムケアは15年1月に宮城県の工場に専用の生産ラインを設けて増産体制を整備した。商品パッケージも刷新し、アンメルツヨコヨコと熱さまシートでは中国人の好む金色のタイプも用意した。インバウンド需要で15年4~9月期は、およそ23億円の増収効果があったという。
株式市場での評価も高まっている。従来、小林製薬はニッチ(隙間)市場でユニークな商品を開発する日用品メーカーと位置付けられていたが、「インバウンド銘柄」との評価が加わり株価は騰勢を強めた。15年の年間上昇率は4割に達し、年明けに調整したものの、今も9000円台前半と高い株価水準を維持する。みずほ証券の佐藤和佳子シニアアナリストは「訪日客にも商品力が評価され、着実に利益を伸ばしている」と指摘する。
ただ、インバウンド需要の先行きは不透明だ。中国経済の減速に加えて人民元安が進み、中国人が日本で買い物をする動機は薄れつつある。日用品を中心に、需要が既にピークを越えたとの見方も出ている。外部環境に左右されるインバウンド頼みの成長では心もとない。
小林製薬は芳香剤など市場になかった新しい商品を開発して成長してきた。一方で化粧水などのスキンケア商品や栄養補助食品などは顧客層が広がらず販売が伸び悩んでいるようだ。他社と競争になる商品に手を広げるより、ニッチ市場での独自の戦いが小林製薬の強みだ。ユニークな開発力で幅広く顧客をひき付ける商品を生み出せるか。中国人にも認知度が広がった今、小林製薬のヒット商品は海を越える潜在力を持ち始めた。
(加藤彰介)
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2016年01月18日
「人生で確かなことが三つある。死、税金、それからミシェルが大統領選に出ないことだ」。
これは最近、オバマ米大統領が対話集会で、国民の人気が高いミシェル夫人が、将来、大統領選に出馬する可能性があるかを聞かれた際に答えたジョークだ。この世の中で確実なことの例えとして、「人の死」「税金」、そして「妻の不出馬」を挙げた。
米国では税金は身近な話題だ。保守層に強固な支持基盤がある「ティーパーティ運動」は、小さな政府を目指して、支払う税金の額をなるべく少なくするというのが運動の目的だ。
税金の取られ方と、税金を取られた後の政府の出費にムダがないかは、つねに政治の焦点。だからこそ、大統領のジョークも大受けする。米国では収入を申告し、決められた税を支払うのは、すべて自分自身がしなければならない。米国だけではない。ほとんどの国で納税作業は課税者自身が行う。
ひるがえって、日本はどうだろう。サラリーマンの給与は、会社が税金を差し引いた額で支給される。すべて納税に関係する事務は、会社が行ってくれる。だから税金の取られ方に無頓着になっていないだろうか。税金が自動的に引かれておカネが振り込まれるのと、いったん全額を受け取った後に、自分で納税の手続きをするのとでは、税金への関心がずいぶんと違ってくる。
毎年、2月16日から確定申告が始まるが、これは自営業者やフリーで仕事をする人が主で、サラリーマンだと給与収入だけで2000万円を超えている人に限られる。
週刊東洋経済は1月23日号(18日発売)で『節税大百科』を特集。フツーの納税者の視点から、「マイナンバー制度と税金」「相続と贈与」「教育資金贈与」「相続税における小 規模宅地の特例」「生命保険を使った相続税対策」「タワーマンションを使った相続税対策」など、節税にまつわる、さまざまな話題を取り上げている。
日本では税が依然として遠い。その風向きが微妙に変わったのが、2015年1月からの相続税の大改正だった。この改正によって、相続税を納めなければならない人が一気に増えた。
「基礎控除(非課税枠)の縮小」と「税率の一部アップ」によって、課税対象が拡大し、支払う税金額も増加した。基礎控除額は2014年12月までは「5000万円+(1000万円×法定相続人数)」だったが、2015年からは「3000万円+(600万円×法定相続人数)」に変更された。
たとえば、父親が亡くなって、相続人がその妻と子1人の場合、非課税枠は7000万円から4200万円に4割も縮小した。遺産総額が5000万円の現金なら、昨年までは非課税だったが、改正後は4000万円を超えると課税対象になった。
これまで東京でもよほどの高級住宅地か商業地でないと相続税が発生しなかったのに、23区内にある数十坪の普通の住宅でも、資産内容や相続人の数によっては、相続税が発生することがある。以前と比べると1.5倍前後になったという推計がある。
さらに納税者にとって税への関心が高まる出来事があった。今年1月から始まったマイナンバー(社会保障・税番号)制度だ。2015年10月下旬から、全国の世帯に「通知カード」が配達され、今年からの源泉徴収票への記載や雇用保険の届け出などに使われる。2017年以降は、行政機関同士の相互ネットワークがつながり、確定申告や健康保険などの手続きで使われる。
銀行預金口座との結びつきがポイントだ(写真:KY/PIXTA)
何より税との絡みで焦点となっているのが、銀行預金口座とのひも付け(結び付け)だ。マイナンバーによって、個人個人の預金口座の出入金と資産状況を把握できれば、税務署は課税逃れを正確に見つけられる。法律では、銀行が預金者からマイナンバーの取得を始めるのは2018年から。これは任意で、預金者は銀行に知らせる義務はない。
ただし、任意利用の後には見直し規定があって、政府部内では2021年以降の義務化を検討しているとされる。そうなれば納税者の資産は、いわば丸裸になる。そうなれば、「ちょっとずるいことをして課税逃れをする」のは難しいのだ。
税は正しく納めなければならない。どこの国でも脱税は重い犯罪だ。その一方で、納税を正しく知って、法律の範囲内で税金を安く済ませることは、納税者として当然の行動だ。政府も政策誘導のために、さまざまな特例や特典を設けて、納税額を小さくする仕組みを用意することがある。そうした節税のノウハウや知識を知っているのと、知らないとでは税金の値段が違ってくる。
主張がない人間は人工知能に乗っ取られる?経済分析専門家を襲う「難しい未来」の正体上野 泰也2016年1月19日(火)NBO
上野 泰也みずほ証券チーフMエコノミスト会計検査院、富士銀行(現みずほ銀行)、富士証券を経て、2000年10月からみずほ証券チーフマーケットエコノミスト。迅速で的確な経済・マーケットの分析・予測で、市場のプロから高い評価を得ている。
あなたの仕事は大丈夫か
第2次世界大戦(太平洋戦争)が終わった1945年から、昨年でちょうど70年が経過した。憲法や安全保障だけでなく経済政策の問題でも「旗幟を鮮明にする」ことが陰に陽に求められる時代になったのだなと、個人的に強く感じている。
日本の戦後の政治・経済社会を長く特徴付けてきた「玉虫色の妥協」の時代が、ついに終わったということなのかもしれない。そのことは、世代が入れ替わったことによる世の中のムードの変化にも大きく左右されているのだろう。
日本を含む世界中で大ヒット中の映画「スターウォーズ/フォースの覚醒」。筆者もなんとなく落ち着かず、公開から1週間以内に3D上映している映画館へ足を運んだ。公開からたった12日間で世界での興行収入が10億ドルを突破するという新記録を樹立したという。
ところが、筆者よりも若い社員の方が圧倒的に多い会社の中では、盛り上がりがまったく感じられない。それもそのはず。調べてみると、スターウォーズのシリーズ第1作が公開されたのは1977年で、日本では78年。今から38年も前のことである。
考えてみよう。78年当時の自分にとっての38年前は、太平洋戦争が始まる前年の1940年である。こう考えてみると、今の若者にとってスターウォーズがいかに「遠い」存在なのかが、よく分かる。自分がもはや古い世代に属していることを痛感させられた。
とはいえ、まだまだ働く必要がある筆者としては若者たちに負けてはいられない。健康管理・体力維持とストレス解消を目的にプールで毎週末泳ぐなど、日頃から地道に努力している。体脂肪率は常に10%前後を保っており、昨年の最低記録は夏休み明けの出社で心身ともに疲弊した日の8.3%だった。
どこかのメディアが体脂肪率の低いエコノミストのランキングでもやってくれないかとひそかに期待している。年をとったせいか、朝早く起きるのが以前ほどはつらくないこともあって、「リーマンショック」発生の頃から始めた始発電車を乗り継いでの早朝出勤を、まだ続けている。
「一面トップ」が各紙揃わなくなったワケ
20年以上にわたって筆者が欠かさず続けている早朝の仕事の1つに、同じ部の若手の指導教育の意味合いも込めている内外各紙の紙面チェック、通称「新聞当番」がある。
日本の各紙が1面のトップに据える記事が揃わないことが、最近かなり多くなった。これは大きな変化である。安倍内閣が推進している政策を支持するかどうかで、自らの立ち位置を各紙が鮮明にするようになった結果だろう。
一方、金融市場の世界でも、「アベノミクス」や日銀の「量的・質的金融緩和」についてエコノミストやアナリスト一人ひとりが賛否どちらの立場を取るか明らかにすることが、マスコミの側から求められるようになったと感じる。それに基づいて、識者コメントなどで紙面構成のバランスが取られるわけである。
そこから派生して、例えば昨今の株高というような個別テーマについても、「グローバルな金余り」が主因だ(要するにバブルの色彩を多分に帯びている)とみるか、それとも企業の改革努力を主因とする今度こそ本物の日本株高とみるかで、立場が分かれやすい。
だが、バランスを取ろうとして「アベノミクス」に批判的なエコノミストや株高の持続性に否定的な市場関係者をマスコミが探しても、最近はなかなか見つからないと聞く。そんな事情もあるのか、債券市場に身を置いているマーケットエコノミストである筆者が、株価の動向についてコメントを求められることが、けっこうある。
自らが所属する会社が掲げる「アベノミクス」の成功にベットしている経営方針とはかみ合わせがよくないコメントを、その会社に所属するサラリーマンであるエコノミスト・アナリストの多くは、公にはなかなか発しにくいのだろう。
特に、株価が上昇すればするほど収益が増えるとみられる証券会社やその子会社のシンクタンクに所属する人の場合、自分の処遇を考えるとジレンマに直面し得る。
また、容易には抗し難い「世の中の空気」のようなものも、筆者は最近感じている。15年ほど前、内外の株式市場が「IT(情報技術)バブル」で沸いていた時もそうだった。
「IT革命」という新たな産業革命によって世界経済は新たな時代に入ったのだという主張が跋扈する中で、「株式市場で起こっているのはバブルではないのか」といった主張を声高に展開しにくい雰囲気が漂っていたことを、筆者はまだ鮮明に記憶している。
ちなみに、ROE(自己資本利益率)重視経営など日本の「企業革命」が株高の主因の1つだという最近の議論は、実は、ITバブルの頃にも一部で唱えられていた話である。
主張をしない「泳ぐ」経済識者の行方は?
当時の新聞記事を見ると、株高の原動力として金余りと共に、「日本経済の構造変化」「ひとつの時代の変化」を指摘した上で、「ROEやEVA(経済付加価値)などの株主価値」「株式時価総額」を高めたいという声が大企業経営者から出てくるようになったことの重要性を強調した識者発言を見つけることができる。
では、はっきりした主張を展開せずに、データの機械的解釈のようなことだけでお茶を濁す(いわゆる「泳ぐ」)姿勢をとっていると、どうなるだろうか。その場合、今度はエコノミストやアナリストの存在意義そのものが問われてくることになる。そして、進化を続ける人工知能(AI)の脅威が、ひたひたと背後に迫りつつある。
AIの研究に携わっている英オックスフォード大学の学者2人が公表して話題になった2013年の論文「雇用の将来:コンピューター化の影響を雇用はどこまで受けるのか?(リンク先は英語の本論文)」は、702の職種についてその将来を分析。導き出されたのは今後10~20年のうちに約47%の職種が自動化されるリスクが高いという結論だった(当コラム2015年1月13日配信「人工知能(AI)は『人類にとって最大の脅威』か?」もご参照)。
エコノミストの消滅確率は43%だったが…
そして、確率90%以上で消える職種として挙げられた職種の中に、社債の信用力の分析などに携わる「クレジットアナリスト」があった(消滅確率98%)。データのルーティーン的分析だけにとどまっていれば、ほぼ確実にAIに取って代わられてしまい、仕事がなくなるということである。
筆者もその一人である「エコノミスト」は消滅確率が43%で、「歴史家」の44%とほぼ同水準にとどまっていたのだが、うかうかしてはいられない。AIによる作業では代替できない付加価値がしっかり伴った情報を投資家に提供していかないと、消滅確率は着実に上昇するだろう。
より高い視点からより長い時間軸で眺めると、エコノミスト・アナリストはその存在意義自体が問われかねない、実に難しい時代に足を踏み入れている。おそらく「真実の瞬間(the moment of truth)」のようなものが、いずれ到来することになるだろう。
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2016/1/18
日本経済新聞 電子版
向かうところ敵なしのトヨタ自動車にかみついている相手がいる。電気自動車(EV)で急成長する米テスラ・モーターズの最高経営責任者(CEO)、イーロン・マスクだ。狂気をも感じさせるスピードと規模で事業を拡大するマスクはトヨタなどが提唱する「水素社会」は来ないと断言する。
■マスクがけんかを売るわけ
「どうして自社以外の技術を攻撃して対立をあおる必要があるのか。水素社会はまだ始まったばかりで、判断は早計だ」――。昨年11月13日、米サンフランシスコでトヨタ自動車が開催した燃料電池車「ミライ」の試乗会。登場した開発責任者の田中義和は困惑した表情を浮かべた。
「フューエルセル(燃料電池)はフール(愚かな)セル」。「燃料電池はクソ」。「燃料電池は永遠のミライ技術」
マスクは昨年来、言葉を選ばず燃料電池車を激しく攻撃し続けている。価格が高く、エネルギー効率が悪いというのが主たる理由だ。トヨタ社長の豊田章男とマスクが米パロアルトで和やかに握手したのは、2010年5月のこと。トヨタがテスラに5000万ドル(当時約45億円)を出資し、新しいEVの共同開発を発表した。
だがトヨタは2014年に一部株を売却。その後も目立った提携の進展はなく、テスラからトヨタの多目的スポーツ車(SUV)への蓄電池供給も終わり、両社の関係は冷めたものになっている。
トヨタの田中は「我々はEVを否定しないし、様々なエネルギーが共存すればいい」と語る。ただ、米最大の人口を誇り、エコカーの最大市場のカリフォルニア州では、2017年モデルからトヨタの強みである従来型ハイブリッド車がエコカーとしてみなされなくなる見通し。「ハイブリッドの次」となる次世代エコカーの拡販を急ぐ必要がある。
マスクが作り出した「EV対燃料電池車」の議論の構図は、こうした絶妙のタイミングで仕掛けられた。影響力は大きい。識者やマスコミも同調し、米では燃料電池やトヨタに対し悲観的な論調が目立つ。
トヨタも流れを変えようとCMで一矢報いた。「クソ」とののしられたのを笑いに変え、農家の牛のフンからつくった水素を自動車の燃料にする「クソで動く燃料電池車」という映像を作り話題を呼んだ。
テスラが自ら投資する充電ステーション。カリフォルニア州だけでも40近く設置されている
だが、水素ステーションの整備は進んでいない。あっても閑古鳥が鳴いているのは事実だ。カリフォルニア州の場合、最低でも水素ステーションは数十カ所は必要だが、現在、一般のドライバーが使えるものは確認できるもので6カ所しかない。可燃物の取り扱いなど、許認可手続きに時間がかかるのが一因だ。
「我々はEV市場をつくるため、自分のカネで急速充電インフラを整備してきた」。テスラ渉外担当副社長のディアミッド・オコンネルは自動車大手を皮肉る。補助金を待つ時間を無駄と考えるテスラはカリフォルニア州だけでも40近い急速充電拠点を自ら設置してきた。
■振り回されるパナソニック
「テスラが使っているのはすでに量産効果が出つくした家電用の電池。これ以上のコストダウンの余地は小さいはずだが」。田中はテスラの世界最大の蓄電池工場への巨額投資にも首を傾げる。テスラはコスト面でのEVの優位性を決定的にする切り札としてパナソニックと総額50億ドル(約6千億円)もの巨費を投じる計画だ。
テスラが建設する「ギガファクトリー」のイメージ図
世界最大のバッテリーメーカーを目指すテスラがネバダ州の山間のへき地に建設中の工場は東京ドーム約28個分。巨大過ぎて設計上、地球の丸みを計算にいれなければならないほどだ。広大な駐車場の端から工場まで歩けば小一時間かかることもありうる。
「工場までの移動効率化のためにジェットコースターを入れたらどうだろうか……ループも途中に入れたほうがいいかな」
工場の設計がヤマ場を迎えた昨年、マスクは社内会議でそうつぶやいたまま、しばらく自分の世界に没入してしまったという。常識を意に介さないことで知られるマスクは、奇想天外な発想を披露する一方で、工場の移動手段のような細かな問題も一つ一つゼロから考え直していくのだ。
つきあわされるパナソニックにとっては困惑の連続だ。「大阪の本社の承認をもらうのに2、3週間かかっている間に、テスラ側が勝手に事業計画を全く違う形で進めている」。担当者は当初、決裁の取り直しに追われたという。
最終決定していないパナソニックの投資額をマスクが先に投資家に公表したこともある。パナソニックからテスラに転じた蓄電池担当ディレクターのカート・ケルティはパナソニック側が期待する対応と現実の調整に腐心している。「実際、イーロン(マスク)が両社で調整する前に発表したり、合意前に投資が進んでいたりもする。そういうことが起こりうるということを分かってもらう。ただ、パナソニックもテスラとのやりとりの中で変わってきた」と笑う。
テスラとパナソニックは世界最大の蓄電池工場を作ることで合意した
テスラに促され、パナソニックはネバダに幹部を送り、現地で意思決定できる体制を整えた。パナソニック社長の津賀一宏とマスクとのホットラインもできている。すべては、2017年に発売する普及価格帯の量産車「モデル3」に蓄電池を独占供給したいとの思いからだ。
■自前の電池開発も画策か
だが、蓄電池の調達は、マスクと、ナンバー2のCTO(最高技術責任者)であるジェービー・ストローベルの専権事項だ。
テスラの内部ではひそかにパナソニックとは別の独自の電池技術の開発が同時に進んでいる。テスラのある調達担当者はこう明かす。「韓国LG化学など、パナソニックと競合する有力企業の電池と、性能を比べる能力を持つためだ」。パナソニックにとって最悪のケースだが、不測の事態があればテスラ単独でも電池の生産に入れる準備をしている、という。
昨年、CTOのストローベルが政府系機関のイベントなどで披露した予測が波紋を広げた。蓄電池の価格低下は、調査会社の楽観的なシナリオのさらに倍のスピードを見込んでいる。これを見たパナソニックの技術者ですら「本当に達成できるのか疑問に思った」と打ち明ける。だが、マスクは「コストダウンのめどはすでに立っている」と意に介さない。
ある日本の素材メーカーは昨年、蓄電池の性能を数割上げる可能性があるという期待の新素材をテスラに提案に行った。だが、「性能が出る実際の電池の形にして持ってこい」と冷たく突き返されたという。担当者は「既に技術的にある程度の当てがついているのかもしれない」と肩を落とす。
■誰もが予想しなかった成長
米カリフォルニア州フリーモント近郊に集積する工場・ビル群「マスク村」。中心にあるのはかつてのGMとトヨタ自動車の合弁工場だった建物
米ゼネラル・モーターズ(GM)とトヨタ自動車の世界最大級の合弁工場「NUMMI」があった米カリフォルニア州フリーモントはいまやマスクがつくりあげたベンチャーの工場が集積する「マスク帝国」の心臓部だ。かつては米国市場に攻め込む日本の製造業の勢いを象徴する場所だったが、いまは米国への製造業回帰のシンボルになった。
2012年にテスラがここで生産を始めた時は年産数千台の規模しかなかった。1年ほど前まで、巨大な工場内のラインは分断され、空きスペースが目立ち、労働者には規律が欠けているように見えた。見学に来たトヨタも含む日本の自動車大手の技術者たちは一様に「生産台数が少ないから成り立っているだけ。学ぶものはない」と切り捨てていた。
だが、そこには目標を達成の時期から逆算して事業計画を決めるマスクの哲学が凝縮されていた。NUMMIを買った当時、テスラには資金が2年分しかなかった。会社の命運を決めるセダンEV「モデルS」の仕様が全く固まらない状態で、並行して工場に投資していく必要があったのだ。自動車は通常、構想から発売まで5年かかる。それを短縮したといわれる韓国・現代自動車でも3年以上。テスラはこれを2年弱でやり遂げ、しかも客観性に定評がある米コンシューマーレポートで最高レベルの評価を得た。
デザインや機能の細部にまでこだわるマスクは製品化直前まで頻繁な仕様変更を要求する。その影響で製造工程も機動的に変える必要がある。好きなときに配置換えできるようラインを工程ごとに分断。大型のフォークリフトで頻繁に機械の場所を替える。
将来は年間50万台のEVを生産できるようにする(カリフォルニア州の工場)
ロボットはできるだけ一台で多機能なものを探し、カタログから機械を発注しただけの現場の素人社員とのやりとりにも対応してくれる担当者を置いてもらうよう求めた。工場内にはそれに応じた独クカのロボットが多い。黄色がシンボルのファナックのロボットもここではテスラのコーポレートカラーの赤に塗り替えられ、オタク気質のマスクが好きなコミックなどのキャラクターの名前がついている。
米調査会社インサイドEVsがまとめた2015年の米国のEV販売動向によると、テスラのEVセダン「モデルS」は49%増の2万5700台となり、43%減の1万7269台だった日産の小型EV「リーフ」を大きく引き離した。年産台数は約5万台。工場の空きスペースは次々と新たな工作機械で埋まり、効率化が進む。量産車「モデル3」のラインの場所を確保するため、手狭になった本工場から近隣の工場へ拠点を広げつつある。5年後にはかつてのNUMMIの生産能力と並ぶ年産50万台を視野に入れる。
■社内で見せる、別のマスク
だが、その勢いは危うさもはらむ。SUV「モデルX」を昨年から投入したが、車種が2つになり、ハンドルの位置、型番の増加などでラインのスピードが落ち、生産効率が下がったという。わずか2車種の混流で歩留まりが上がらないなら、さらなる量産はおぼつかない。労働者の熟練不足は大きな課題だ。
工場労働者の賃金は大手の自動車工場より低く抑えられている。フリーモントで配車サービスのウーバーに乗ると、運転手が副業しているテスラ工場の従業員であることが多い。「賃金水準が不満」だという。遠くないうちに労働組合ができ、賃上げを要求する可能性は高い。
それでもテスラにとって、シリコンバレーの起業家で最も人気のあるマスクの存在は、激しい人材獲得競争の最大の武器だ。同社社員によると、「従業員の給与もIT(情報技術)大手にくらべれば安い」。アップルがEV開発部隊を立ちあげたときは、テスラの基本給の3倍の条件にボーナスもつける破格の待遇で中堅幹部を引き抜きにかかった。それでもアップルからテスラに入る社員の方がはるかに多く、セキュリティー担当の幹部など、中枢人材にまで及んでいる。社員によれば「感覚的にはテスラからアップルが1、その逆が3の割合」だという。こうしたテスラの求心力は、マスクの個性に過度に依存している。
少年のようにはにかむマスコミ向けとは別の顔がある
テスラは2010年に新規株式公開(IPO)にこぎ着けたが、年間の最終損益は一度も黒字化していない。強気の先行投資で四半期ベースでも13年1~3月期を除き黒字化は一度もない。
見渡せばEVを手掛けるベンチャー企業は死屍累々だ。一時はテスラのライバルと目された米フィスカー・オートモーティブや米コーダオートモーティブなどは経営破綻した。投資規模が大きく、ベンチャーには一つのミスでも命取りになる世界だ。
普段のプレゼンやメディア対応など、公的な場では少年のようなはにかんだ表情を見せるマスクも、社内では全く別の顔を見せる。会議では放送禁止用語を連発し、極限まで自分を追い込まない社員をつるし上げる。ある社員は、「製品発表の3カ月前くらいから、家族にしばらくいないものと思ってくれと伝えた」という。自らも猛烈に働くマスクからの激しい改善要請が押し寄せるからだ。
テスラではまず実行が前提だ。マスクの目標に対し「物理学的に不可能」という理由以外で「できない」と言った瞬間にクビだ。最近、日系の大手自動車メーカーから2人が転職したが、すぐ解雇されて舞い戻ってきたという。ロボットの先端的な知識について知らなかった幹部はマスクと廊下で立ち話しした直後に解雇された。マスクの方が詳しい部分が少しでもあれば専門家として不要とみなされるのだ。
その手法は社員や生産規模が増え続けても持続可能なのか。政府や自治体からの優遇策の引き出し、増資、そして私財提供と、マスクの天才的とも言える経営手腕で荒波を乗り越えてきたが、それもリスクだ。毎年、公表する年次報告書で同社自身も認めている。
「主要な人材を失えば、事業が崩壊する恐れがある。特に、イーロン・マスク氏(とストローベル氏)への依存度が高い」
独メルセデスベンツの研究ディレクター、エリック・ラーセンはテスラも「規模の呪い」は避けられないと予言する。「テスラのブランドは確かに脅威だ。だが、小さい規模の頃に見えなかった問題はすべて後から出てくる」
=敬称略(シリコンバレー 兼松雄一郎)
2016年01月18日 TK
1978年の2人のスティーブ。左がウォズニアック、右がジョブズ(写真:Picture Alliance/アフロ)
スティーブ・ジョブズがアップルCEOを退任するニュースが流れた2011年8月、ブルームバーグのレポーターが同社の共同創業者であるスティーブ・ウォズニアックにジョブズという人物について、たずねたことがある。アップルに復活し、急激な業績回復をもたらした彼をそもそもあれほど野心的にし、駆り立てたものは何だったのか、という質問だ。
「若い時分のことしか僕にはわからないけれど」と前置きし、ウォズニアックは次のように答えた。
"スティーブは大きなことをして成功したいと思っていたし、ちゃんとした儲かる会社を興すことがそのための道だと考えていた。そしてそういう方向に進んでいった。彼という人物のなかでその部分はずっと変わらなかった。
20代の彼はせっかちで、話を始めると止まらなかった。いろんなアイデアが溢れ出てきて、やりたいことがたくさんあった。僕は技術者、テクノロジストだしものを作りたかった。彼は最終的に求めるものが違っていた。会社を興して成功したがっていた。指南書みたいな本も読んでいた。当時彼が話していたのは『肩をすくめるアトラス』とかだったかな。
彼にとって本は世界で違いを生み出すためのガイドブックだった。で、それは会社を興すことから始まった。製品を作って利益を出す。その利益を投資してもっと利益を出す、さらにいい製品を作る。どれだけいい会社かは、利益によって測られるってね"
「会社は財務的に健全でなければならないし、損失を出してはならないとジョブズは強く思っていた」とウォズニアックは語っている。
『肩をすくめるアトラス』はロシア出身の作家アイン・ランドが1957年にアメリカで発表した長編小説だ。前回、前々回の記事で、この哲学小説家が米国政治に及ぼしてきた影響について書いた。
だが、作品の発表以降半世紀にわたる間、彼女の思想が本当に大きな力を持ち続けてきたのはアメリカのビジネスマン、とくに起業家たちの間においてだ。
この小説の主役は、裸一貫で炭鉱労働者からはじめて画期的な合金を開発し巨大な製鉄会社を経営するに至る実業家、あらゆる障害を乗り越え新線を敷設する大陸横断鉄道の業務取締役副社長、誰も価値を見出していない事業を発掘することで富を築く投資家など、経済を個人の才覚とたゆまぬ努力、頭脳で支え動かすアトラスたちだ。
社会主義思想が世界的ブームとなり、営利の最大化を至上命題とする大企業が資本主義批判の矢面にたたされ、アメリカにおいても高齢者や低所得者など社会的弱者に富を再分配する福祉政策が実現していった1960年代に、この小説は、高い利益を生みだす、これまでにない最高の商品やサービスを生み出し流通させることこそが最も経済成長と人間の進歩に貢献するのであると説いた。
そして、富は個人の意志と努力によって築かれ、築いた富の大きさは個人の美徳の指標であり、ビジネスマンが自由に経済活動を行い、その成果としての利得への権利を正当に主張できる資本主義こそが唯一道徳的な制度であると説いていた。
CNNの創業者テッド・ターナーは、1967年に『肩をすくめるアトラス』の引用文句「ジョン・ゴールトって誰」と書いた200枚超のビルボードを南部各地に設置した
この主張を小説において展開する『肩をすくめるアトラス』は、発売と同時に、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめとするリベラルな主要メディアから激しい バッシングを受けた。作家のゴア・ヴィダルをして「不道徳さにおいてはほぼ完璧」と言わしめたほどだ。だがすでに前作のベストセラー小説『水源』の根強い 人気もあり、口コミで評判になった。そして作品は学生、ビジネスマン、軍人など幅広い層の読者の間で支持され続けた。
出版から10年後の1967年、いまだ無名で父親から引き継いだ広告会社を経営していたCNNの創業者テッド・ターナーは、『肩をすくめるアトラス』の中の謎の決まり文句「ジョン・ゴールトって誰?」と書かれた248枚ものビルボードをアトランタはじめ南部の主要7都市に自腹で建てている。
1974年にフィラデルフィアでスポーツ・エンターテイメント事業会社スペクタコール(現コムキャスト・スペクタコール)を創業したエド・シュナイダーもランドの思想に大きな影響を受けており、NBAの76ersなどを経営する傍ら、米国アイン・ランド協会の設立のために出資し、最近は『肩をすくめるアトラス』の映画化にも尽力した。
NBAといえば2000年にダラス・マーベリックスを買収し、低迷していた弱小チームをみずから補強や選手待遇改善の音頭をとって6年後に決勝(ファイナル)に導いたIT長者のマーク・キューバンもアイン・ランドの熱心な読者として知られている。
コンピュータ会社やインターネットラジオを立ち上げ、売却することで巨万の富をなしたキューバンは、一昨年の秋、民間の事業者が支払料金に応じて受益者を区別してサービスを提供することを禁ずるネットワーク中立性の法制化が議論された際、規制に反対し、「アイン・ランドが現役の作家なら、鉄鋼や鉄道ではなく、ネットの中立性について書いていただろう。ジョン・ゴールトって誰?」とツイートしたことが話題になった。
米国のファッションブランドを代表するラルフ・ローレンは、『水源』に触発されてデザイナーを志した。1943年に第二次大戦下の米国で発売された『水源』は、アイン・ランドを一躍有名にし、キング・ビダー監督、ゲイリー・クーパー主演で『摩天楼』という映画にもなった長編小説だ。主人公のハワード・ロークは孤高の天才建築家。工科大学の建築学部の期末プロジェクトでルネサンス様式の邸宅の設計を課されたにも関わらず、これまでにない様式のガラスとコンクリートの図面を提出し、学長と以下のやりとりを交わして退学になる。
「建築家になったら、なれたとしたら、君は真面目にあんなやりかたで建てると言いたいのかね?」
「はい」
「きみねえ、そんなことをさせてくれる者がいるのかね?」
「それは問題ではありません。問題は、行く手を阻む者がいるかどうかです」
(アイン・ランド 『水源』(原題:The Fountainhead)より)
物語のアンチヒーローで日和見主義者の建築家、ピーター・キーティングとは対照的に、ロークは構造やデザインに一切の妥協を許さず、そのために仕事の依頼も絶えて石切り場で働いたりしながらも、ときどき熱狂的な賛同者に巡り合い、合理的で斬新な機能性の高い建物を作り続ける。そして物語の終盤、キーティングからコストの制約のために構造設計が困難な公共の住宅プロジェクトの設計をひそかに依頼され、すべてのディテールが尊重されることだけを条件に、無料で設計を引き受ける。だが依頼主の意向でデザインが変更を余儀なくされると、ダイナマイトでそのビルを爆破してしまう。
この小説は、アイン・ランドが敬愛し、独自のスタイルで一世を風靡した建築家フランク・ロイド・ライトをモデルにし、作家が建築事務所で一年間業務を手伝うなどして綿密な取材を重ねて書き上げた作品で、のちにライト自身からも絶賛された。もちろん、顧客からの依頼でデザインを修正されたことにキレて建物を爆破するなど、ビジネスの現実からは程遠い。だがハワード・ロークの物語は以来半世紀に渡り、あらゆる業界のあらゆる組織の事業家、経営者、セルフ・スターターたちに読み継がれ、彼らの指南書となってきた。
前述のマーク・キューバンは、『水源』を3回通して読んだほか、部分的にお気に入りの箇所をめくったことは数えきれないそうだ。この本は高校生の彼に「他人が何を考えるかは関係なく、自分が何をしたいか、自分自身の夢が何かだけが重要だと教えてくれた」という。
そして事業をたちあげ、様々な困難にも直面した彼を「鼓舞し、一個人として考え、目標に到達するためにリスクをとり、自分の成功にも失敗にも責任を持つことを促してくれた」らしい。キューバンは自分のヨットを『水源』と名付けている。
ラルフ・ローレンのホームページには「ストーリーはある女性像からはじまる。頭のなかで、その女性をベースに世界観を作り上げる。コレクションをデザインするときは、そのヒロインが頭の中にある」とある。好きな作家としてヘミングウェイと並びアイン・ランドをあげる彼の上質なテーラードシャツやスーツは、『肩をすくめるアトラス』で鉄道を経営するダグニー・タッガートの服を想起させる。
シルエットが美しい彼のブラックドレスのインスピレーションもダグニーが作品中の鉄鋼王ハンク・リアーデンのパーティーで着ていたアシメトリーの黒のドレス――華奢な体のラインと片方のあらわな肩だけが唯一の装飾であるシンプルなイブニングではないかと筆者は勝手に想像している。
同じアパレル業界で、2008年にニューヨーク市のヤング・デザイナー・アワードを受賞し、ユニクロとのコラボでも知られる気鋭のユニット、シプリー&ハルモスは、2009年の秋冬のプレタポルテコレクションへの招待状で『水源』の一文、「人生は目標から次なる目標へとまっすぐに動く直線」を引用し、テーマをランドの思想、客観主義(オブジェクティビズム)の「エンパワーメントの感覚と目的意識」に設定した。
1967年に撮影されたアイン・ランド(写真:AP/アフロ)
大事業を成功させる異端児たちは、誰もが自分の物語を持っている。かれらは若い時から大きな渇きに突き動かされ、ただなにかすごいことを成し遂げたいと思っている。アイン・ランドの物語はそうした若者たちの渇きをいやし、言葉と道徳的承認(モラルサンクション)を与えた。
とくに代表作の『水源』と『肩をすくめるアトラス』は、異端であることを誇り、権威におもねることなく、ときに友人を失くし、会社から放り出されたりしながらも、いつかすごいことをやり遂げるという自分のビジョンを信じて我が道を行くクリエイターたちの聖典となった。
スティーブ・ジョブズは『肩をすくめるアトラス』第一部の映画版が公開された2011年4月15日の夜、病をおして地元マウンテンビューの劇場に足を運んでいたのが目撃されている。ウォズニアックによれば、ジョブズが特に優れていたのは、どの製品が良くてどれがそうでないか、何を採用し、何を排除すべきかを判断できたことだが、一切の妥協を許さない強い姿勢のために、多くと戦い、敵も作っていた。
むろん事業が成功し、大組織の頂点にたてば、アイン・ランドに鼓舞された起業家たちも自分本位ばかりではいられなくなる。また作品に肯定的な読者がみなエキセントリックな反逆者だったわけでもない。
彼らは仕事をし、成果を上げ、頭でっかちの若者から成功したビジネスマンとして認められるようになると、その思想を後進に伝え続けた。アメリカの人気テレビドラマ「マッドメン」では、主人公のドン・ドレイパーが働く広告代理店の社長が仕事や生活の雑多な悩みで悶々としているドレイパーに『肩をすくめるアトラス』をすすめるシーンがあるが、似たようなことは日常的に行われているようだ。
ノースカロライナの銀行家ジョン・アリソンは南部の大手銀行BB&TのCEOを勤めていた際、部下の重役たちに『肩をすくめるアトラス』を読ませていたという。「ランドの思想はとてもパワフルだ。彼女はアリストテレス派で、理性の擁護者。考える力が進歩の源であり、人が生産的であるためには自由でなければならないと信じていた」と、アリソンは語る。
ランドのオフィシャルな思想である客観主義(オブジェクティビズム)の学徒でもある彼はBB&T退任後も一時期ワシントンDCの保守系シンクタンク、ケイトー研究所の所長をつとめ、現在もランド思想の正当性と有効性を説きつづけている。
「彼女は利己主義とは長期的な自分の利益を追求することだと考えていた。我々は商人であり、価値のあるものを価値のあるものと交換する。人生はウィン・ウィンの関係を作っていくこと。ランドの思想で教えているのは商人の原則、ともに良くなる文脈において、利益を追求するということだ」
先物のインデックス開発を手掛けるアルファ・ファイナンシャル・テクノロジーズCEOのビクター・スペランデオは本屋で偶然アイン・ランドの論文集『利己主義の美徳(原題:Virtue of Selfishness)』を見つけ、二十代にランドの著作を読んで過ごし、アリソン同様、その「商人」の考え方に深い感銘を受けた。
最近はトレーダー歴四十五年の実績を生かし、投資に関する本を書いたり経済メディアでコメントしたりしているが、自分のリムジンを前述のヒロインにちなみダグニーと名付けている。
コンベアベルト大手のイントラロックスなどを傘下に持つレイトラムCEOのジェームズ・ラペールは、敬虔なカトリックで大きな政府にも疑問をもたない大学生だった頃、バスケットボール部のチームメイトに「共産主義は、理想は素晴らしいが現実的には機能しない」といったところ、「共産主義は考えうる限り最も邪悪な政治制度だ」と反論され、夜明けまで議論した。
決着はつかなかったが、そのチームメイトからランドの論文集『資本主義:理想(原題:Capitalism: the Unknown Ideal)』を渡されて読み、アイン・ランド主義者に転向した。
ランドの本に出てくる英雄たちは現実離れしているし、実際にダグニーみたいな人物に巡り合うこともないが、ランドの思想は現実離れしてはいない、とラペールは言う。
「ものの考え方はその気があれば自分のものにすることができる。人がああいった考え方に触れると、私がそうだったように刺激を受ける。とくに何かをやり遂げることと、それに誇りを持つことについて深く考えるようになる。加えて目的や理性や独立した思考について、日々の仕事の中で意識し続けるようになる。もっと多くの人たちがその考え方を共有するようになれば、それぞれが考え、挑戦する文化が生まれる。私にとっては、そこにはひとりの天才を生み出すよりも大きな効果がある」
『肩をすくめるアトラス』(脇坂あゆみ訳)(上の書影をクリックするとアマゾンのサイトのジャンプします)
ちなみにイントロラックスのホームページで企業理念をみると、利益は出資者と従業員の互いの努力の成果、生産性は顧客へのより高い価値の提供とコスト削減と定義され、アイデアとチームワークによって高められると書かれている。
また、報酬については業績に従うもので、「働きに相当する以上を求めたり、それ以下を受け入れたりすることを要求されることはない。全員の努力によって得られた恩恵はひとりひとりに分配されるが、各人が受け取るのはその貢献度に応じた分のみ」と会社の公式な理念としてはかなりアブノーマルな文言が記されている。
『肩をすくめるアトラス』の主人公の有名なラジオ演説のなかの台詞を、ほとんどそのまま使っているのである。
サンフランシスコで小規模オフィス向けの業務用ソフトを提供するフィールドブック創業者のジェイソン・クロフォードによると、アイン・ランドの思想とシリコンバレーの規範には共鳴する部分が多い。どちらも、あるビジョンに動かされ、商品のかたちにして市場に売り出す「メイカー」を理想とする。また、シリコンバレーの事業や投資で成功を収めるには、ペイパルの創業者でリバタリアンのピーター・ティールやリンクトインのリード・ホフマンが言うように、コンセンサスに反して自分だけが正しいと考えることを追求する必要がある。そうでなければ画期的な商品など生み出せず、競合がひしめく市場で疲弊するだけだ。
何より、アイン・ランドの英雄たちは仕事師たちの集団だが明るく、スケールが大きい。クロフォードは『肩をすくめるアトラス』の楽観主義と壮大な世界観に共鳴し、ランドの哲学に惹きつけられたという。ジョン・ゴールトの言葉を借りれば、「夢にみた世界は勝ち取ることができ、それは存在し、本物であり、実現可能であり、あなたのもの」なのだ。
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中国ショックで露呈した脆弱相場の真のリスク
週刊ダイヤモンド編集部 2016年1月18日
中国発の株安が再び世界の株相場を揺るがしている。戦後初めて、日経平均株価は年初から6営業日連続で下落した。その要因の一つといわれる中国経済が直面する問題と、マーケットが抱えるリスクを検証した。(「週刊ダイヤモンド」編集部 大坪稚子、前田 剛)
Photo:YUTAKA/アフロ
昨年夏の中国ショックの再来か。上海株の急落に端を発した世界同時株安に、市場が揺れている。日米欧など主要市場の株価は年初から大きく下落(下図参照)。特に日経平均株価は、6営業日連続の下落という戦後初の事態となった。1月13日、ようやく反発して1万7715円で引けたものの、翌14日には一時的に1万7000円を割り込むなど、不安定な状態にある。
2015年8月、人民元の切り下げをきっかけに起こった世界同時株安は記憶に新しいが、今回も株価下落の引き金になったのは中国だった。取引初日の1月4日に発表された、中国の製造業購買担当者景気指数(PMI)が市場予想を下回ったことで上海総合指数が急落。値動きが制限幅を超えると取引を停止する「サーキットブレーカー」が発動されるに至った。
「上海株急落で、そもそも中国の統計指標は信用できないと感じている投資家の間に、中国経済はもっと悪いんじゃないかとの疑心暗鬼が広がった。それで相場がリスクオフ(リスク商品を売って安全資産を買う)になり、世界同時株安につながった」(西濱徹・第一生命経済研究所主席エコノミスト)。
相場の混乱はその後も続く。上海株は取引初日の急落後いったん反発したものの、4日目の1月7日に再び急落。皮肉にもこの急落を招いたのが、極端な値動きを抑えるために導入されたサーキットブレーカーだった。相場がいったん下げ始めると、サーキットブレーカーの発動で取引停止になる前に売ってしまおうという個人投資家のパニック売りが殺到し、相場が一気に下落したのだ。同日夜、中国当局は導入4日目にしてサーキットブレーカーの運用停止に追い込まれた。
本稿執筆時点(1月14日)で、上海総合指数は再び3000を割り込み、下落に歯止めがかかっていない。「企業の業績からすれば、まだ割高。2000~2500くらいが妥当な水準」(柯隆・富士通総研主席研究員)との指摘もある。そうだとすれば、上海株の下落は当面続くことになり、世界の主要市場の混乱も収まらない可能性がある。いったい中国の実体経済はどのくらい悪いのだろうか。
過剰設備・在庫と地方債務増大で効力失う景気対策
中国経済の減速を示すデータは枚挙にいとまがない。13日に発表された輸出額と輸入額の合計である貿易総額は前年比8%減と、6年ぶりの前年割れとなった。前述のPMIが景況感の分かれ目である50を割り込んでいることもその一つだ。15年7~9月期(3Q)の実質GDP成長率は前年同期比6.9%と、目標の目安である7%を下回っている(下図参照)。
ただ、中国政府も手をこまねいていたわけではない。リーマンショック後の大規模な景気刺激策による過剰投資の副作用や、ギリシャ危機などの影響で12年ごろから長期低迷に入った景気を刺激しようと、小規模な財政政策や利下げを実施してきた。15年10~12月期には、地方の公共投資案件が動き始めることで景気は底打ちする、との見方も多かった。
ところが、PMIは底打ちの気配を一向に見せず、15年の消費者物価指数も前年の2%を大きく下回る1.4%にとどまった。なぜ、中国は景気低迷から抜け出せないのか。それは、政府の景気対策が効かないからである。
理由は大きく二つある。過剰設備の淘汰が進んでいないこと、そして地方政府の債務が膨らみ続けていることだ。
企業はリーマンショック後の景気刺激策で過剰な投資を続けたため、過剰債務・設備を抱え込んでしまった。その結果、当局が利下げをして資金を供給しても、そのほとんどが債務返済に充てられ、設備投資の資金需要は回復していない。
地方政府の債務問題はさらに深刻だ。中国紙の「第一財経日報」によると、14年末時点で、地方政府の債務総額は24兆元と、14年のGDP比で約38%に膨らんでいるという。
15年に入って、中央政府は地方政府が発行する地方債に政府保証を付けるなど、債務を軽減する政策を打ち出しているが、あまりに債務が膨大なため、「返済が追い付かず、有利子負債は増え続けている」(柯主席研究員)状態だ。
李克強首相は昨年来、強い口調で何度も地方政府に公共投資案件の執行を促してきたが、このような財政状態故に、資金は債務返済に回され、投資案件にはあまり回っていないとみられる。
こうして、利下げも財政政策も効力を失ってしまったのだ。
昨年12月に開かれた中央経済工作会議(翌年の経済政策を決める会議)で、習近平総書記は、中国経済が直面しているのは景気循環の問題ではなく構造問題であり、従来のような財政政策はもはや通用しないと主張、政府も従来型の景気刺激策に効果がないことを認めている。同時に、「供給側改革」(過剰生産能力の淘汰や不動産在庫の解消)を最重要課題として位置付けた。経済を立て直すためには、痛みを伴う構造改革を断行するほかないということだろう。
方向性は打ち出された。だが、今のところ具体策は何ら提示されていない。改革を実行していくための政権基盤もいまだ盤石とはいえず、中国経済の先行き不透明感は拭い切れない。
円高が進行して株価が下落すれば追加緩和の可能性
今回の世界同時株安は、確かに上海株の急落がきっかけではあるが、それが主因ではない。市場は中国経済の低迷をすでに織り込み済みだからだ。株安の根底には、原油安や地政学リスクによって米利上げペースに対する不透明感が増していることがある。
昨年までは、米国がいつ利上げを開始するかが不透明だったために相場が乱高下した。今年は、次の利上げがいつかという点が不透明要素として市場の重しになっている。原油安が続き、米国のインフレ率が上がらなければ利上げを続けることは難しい。また、地政学リスクは原油安をさらに助長し、リスクオフの動きを加速させ株安を招きやすい。
14日時点ではまだ下げ止まらない日本株だが、今後はどう動くのか。「年初の株安で、16年の日本株の発射台が低くなった」(広木隆・マネックス証券チーフストラテジスト)ことで、上値は限られてくるだろう。
そんな中、鍵を握るのはドル円レートだ。海外ヘッジファンドがリスクオフの円買いを進めていることもあり、年初から円高に振れている。さらに円高が進めば、企業業績の悪化懸念から日本株はさらに下がる。今年7月に参議院選挙を控える安倍政権にとっては、株価下落は何としても避けたいところだ。
そこで浮上してきたのが、日本銀行の追加緩和観測だ。上図で示したように、名目実効円相場は前回の追加緩和時と同じ円高水準に接近している。「1月にドル円レートが116円を割り込めば、百パーセント追加緩和に踏み切るだろう」(高島修・シティグループ証券チーフFXストラテジスト)。
年初の急落で、リスクに過敏に反応する相場の脆弱性があらわになった。16年の大波乱相場は、まだ始まったばかりだ。
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「CES 2016」現地徹底ルポ-参加者が目を見張った次世代製品はこれだ!ジャーナリスト・長野美穂2016年1月20日 DOL
日本時間の1月9日までラスベガスで開催されたテクノロジーの祭典、CES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)。「世界最大の家電見本市」という従来の位置づけを大きく超えて、ドローン、自動車、VR、ロボット、エンターテイメントなど、様々な最先端テクノロジーが大集結した。参加者が目を見張った次世代テクノロジー・製品は何か。イベント期間中の現地ルポを基に徹底解説する。(取材・文/ジャーナリスト 長野美穂)
会場で最もぶっ飛んだ製品は?なんと人が乗れるドローンが登場
「CES 2016」の会場には、ソフトバンクのロボット「pepper」もお目見え。「ベストオブCESアワード」のプレゼンターを務め、人気者に
「この会場で、一番クレイジーでぶっ飛んだテクノロジーは何?」
全米家電協会(CEA) が、毎年1月にネバダ州ラスベガスで開催してきた世界最大の家電見本市「コンシューマー・エレクトロニクス・ショー」 (Consumer Electronics Show)。今年から、主催団体のCEAは、コンシューマー・テクノロジー・アソシエーション(CTA)に名前を変えて「CES 2016」を開催。そのメイン会場となるラスベガス・コンベンションセンターに筆者はいた。会場を埋め尽くした17万人の参加者たちの間で飛び交っていたのが、冒頭の質問である。
その答えは、会場奥の小さな目立たないブースにあった。「EHANG」という名の中国企業がつくったドローンとヘリコプターの中間のような不思議な形の乗り物「EHANG184」がそれだ。
軽自動車よりやや小さめのサイズで、普通のドローンと比べるとはるかに大きい。「Autonomous Aerial Vehicle」の頭文字を取って「AAV」と銘打たれたこの乗り物を目にした参加者たちからは、「セルフ・ドライビング・カーなんて、これを見ちゃうともう全然古いなって思うね」という感想が聞こえる。
世界初!? ドローン型ヴィークル「EHANG 184」を、前と横から見たところ
ドローン部分の4本のアームの先にモーターが全部で8つ付いている。プロペラも合計8つ。真ん中の座席部分に人が1人乗ることができ、空を飛ぶ構造だ。座席の前はガラス張りで、前方が大きく見えるようになっており、操縦桿やハンドルはついていない。地上で誰かがリモコンで操作するとしたら、とても怖くて乗れない気がする。
「これはドローンではないので、地上で人間がリモコン操作するわけではない。第一、人間が操作するんだったら、危なくて信用して命なんて預けられないでしょ」と言うのは、同社のテック・セールスのディレクター、シンイェ・リウ氏。カーネギーメロン大のエンジニアリング修士号を持つ彼女は言う。
「飛行機のオートパイロットの要領で、自動制御プログラミングされていて勝手に飛ぶから安全。乗客はウーバーに乗るみたいに気楽に乗っていればいいだけ」
空飛ぶウーバー……。そうは言っても、ドローン型の形状だけに、強風などに煽られたら落ちてしまうのではないか。
「ヘリコプターのモーターは1つしかついてない。それに対し、『EHANG 184』についているモーターは8つ。つまり8倍のパワーがあって安全。ヘリコプターを信頼して乗る人なら、これにも乗れるはず」と自信満々のリウ氏。
約100kgまでの体重の大人が1人乗ることができ、行きたい場所をスマホのアプリで指定し、「テイクオフ」の指示を与えると、自動的に飛行するという。着陸したい場所に着いたら「着陸」の指示をスマホのアプリを通して送るだけ、と簡単そうだ。最高速度は約100km/hで、23分間飛行できる計算だ。
マーケティング担当のクレイグ・グローバー氏によれば、まだ人を乗せての試験飛行は実行していないが、無人での飛行実験はすでに済ませているとのこと。彼いわく「実験中の事故も何度か経験したが、改良していく」とのことだ。
何とも奇抜な発明だが、排気ガスによる環境汚染やクルマでの渋滞を解消するのに最適だと同社は言う。
この「EHANG 184」が今年のCESのベスト・オフビート・プロダクト賞を受賞した。EHANG社はこれまでにも「Ghostdrone」など通常のドローン製品を世に送り出してきたスタートアップ企業で、シリコンバレーにも支社を持ち、社員は200名ほどいるが、人間を乗せて空を飛ぶ乗り物をつくるのは初めてだという。「もし飛行中に異常があったらどうするのか」と聞くと、すぐに着陸可能な場所を探して自動的に着陸するシステムだという。
価格は20万ドルから30万ドルの間ぐらいの予定で、今年中に商業化したいとのこと。かなり勇気がないと実際に乗ってテスト飛行できないだろうが、安全性の問題がもし仮にクリアできたとしても、米連邦航空局の許可が出るかどうかは未定だ。
自動車メーカーがこぞって出展、エレキとの垣根はなくなった?
EHANG社だけではない。会場を回ると、「自動で動く」テクノロジーを合い言葉に、今年のCESでは大手自動車メーカー各社がセルフ・ドライビング・カーの開発にしのぎを削っていた。自動車メーカーがこぞって参加し、家電と自動車の垣根がなくなったことを感じさせられたことも、「CSE 2016」の大きな特徴だ。
たとえば、米フォードのCEO、マーク・フィールズが発表したのは、クルマに取り付けて周囲の状況をリアルタイムで3Dマッピングできるセンサーだ。一見ホッケーのパックを厚くしたような形に見える銀色のセンサーをクルマの外側やミラーなどに取り付けると、周囲200メートルの距離内にいる歩行者の動き、建物などを即座に把握できる。
「ウルトラ・パック」と名付けられたこの3Dマッピング・センサーは、シリコンバレーのベロダイン社が開発したもので、グーグル社の自動運転車が屋根につけているグルグル回る巨大なセンサーよりはるかに小さく、コンパクトだ。フォードはこの新センサーをフュージョン・ハイブリッドに搭載してテストし、約30台の自動運転車をカリフォルニア、ミシガン、アリゾナでテストする予定だという。
フォードはグーグルと共同で自動運転車を開発するのか?
(上)フォードが自動運転車の開発に使うと発表したセンサー。真ん中の小さな銀色の缶のように見えるのが新型センサーだ
(中)フォードのブースにて。写真は自動運転車の3Dマッピング図。クルマの上につけたセンサーにより、周囲の人の動きを把握できる。参加者の質問に答える
(下)フォードのマーク・フィールズCEO(写真中央)
CEOのフィールズ氏は「グーグルと共同で自動運転車を開発するのか?」という質問には答えなかったが、「シリコンバレーのパートナーたちとはずっと対話をしてきているし、消費者のトレンドを見ると、新しい分野のイノベーションに挑戦していくことが非常に大事なのは明らかだ」と自動運転技術のR&Dを強化し、またそれとは別に、カーシェアリングなども積極的に行うと断言した。
フォードの自動運転研究リサーチのトップ、ケン・ワシントン氏に「いつ自動運転車が実現するのか」と直撃すると、こんな答えが返ってきた。
「セルフ・ドライビング・カー実現の一番の課題は、運転中、周囲の状況をいかにマッピングでき、把握できるかにかかっている」
そして彼はこう続けた。
「高画質の3Dマップピングが常に完全にできるコントロールされた環境なら、実は自動運転自体はそう難しくない。だが、実際に天気や道路の状態は刻々と変わる。自動運転の完成ステージが5だとしたら、今、我々が目標にしているのは、あと4年で4段階目をクリアすることだ」
ステージ4とは、具体的には、クルマの周囲にいる自転車、歩行者、バイクなど、あらゆる状況を即座に察知でき、雨や雪などの天候の変化にも問題なく対応できる段階だという。
スタンフォード大学で自動運転の研究をしているウェンディ・ジュ教授は、「老化や身体の機能が低下して運転を諦めたお年寄りや両親たちが、自動運転で再び社会参加できるとしたら、いったい子どもたちはいくらまで払う気があるのかによっても、自動運転の技術の進み具合が変わってくるはずだ」と言う。
フォードだけでなく、ボルボ、アウディ、ヒュンダイなど各メーカーが自動運転車技術の開発を競う中、その鍵を握る道路状況データとそれを分析するハードウェアを提供するのが、シリコンバレーのスタートアップ企業だ。
フォードの隣のブースでは、NVIDIAが「自動運転車のためのスーパーコンピュータ」を発表した。Drive PX2 という名で、マックブックプロ150台分の情報処理能力があるという。
ディープラーニング機能で高速データ分析ができるというこのコンピュータは、自動運転に必要な好感度センサーやレーダー、複数のビデオカメラの情報を素早く分析でき、リアルタイムで道路の状況を把握するのに役立つ。自動車メーカーの中ではボルボがこのPX2を使用する最初のパートナーとなり、ボルボからはすでに100個以上の注文が入ったという。
(上)NVIDIAが開発した自動運転車用スーパーコンピュータ。(中)NVIDIA のセンサーが雨の中で感知した道路上の歩行者たち
(下)Qualcommのプレゼンでも自動車関連技術が主役に
自動運転車を自社でもテストし、実際に道路を走ってデータを集め研究しているNVIDIAの開発チームのデザイナー、スティーブン・メンドーザ氏は言う。
「うちのGPU技術は、そもそも高画質のビデオゲームの開発者の間で知られていたビジュアル向け技術。うちは研究開発には10億ドルも注ぎ込んでますから。その技術を自動車に応用すると、クルマの死角に入りがちな他の走行車の状態をリアルタイムで正確に察知できるようになるんです」
たとえば走行中に左から追い越しをかけてきたのがSUVなのか、トラックなのか、普通の乗用車なのかがすぐわかり、自動運転のコースを他のクルマの動きに応じて制御するシステムも開発した。
NVIDIAのシステムや技術はこれまでベンツ、BMWやフォードなどのセルフ・ドライビング・カー開発にも使用されてきた。NVIDIAなどのシリコンバレー企業がスーパーコンピュータなどに研究を特化させ、特許を次々取って技術を提供する今、自動車メーカーが自社内だけで自動運転車を開発するのは、ほぼ不可能だ。つまり、セルフドライビングを目指すなら、センサーや情報処理に特化したシリコンバレー企業との共同作業は必須と言える時代になったのだ。
車内への子どもの置き去りを防ぐ米国社会ならではのソリューション
(上)インテルのブースで見た、インテルのセンサーを使ったFuhuのnabiシッター。赤ちゃんを車内に置き去りにしてしまうのを防ぐためのシート
(下)万一、子どもを車内に残したまま親がクルマを離れると、スマホにアラートが送信される
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前述のように、CES会場では今年はまるで自動車ショーに来たのかと思えるほど自動車産業関連の企業がこぞってブースを出していた。もっとフツーの消費者が今すぐ使える自動車関連の技術はないのかと探すと、インテルのブースに面白いセンサーがあった。クルマの後ろの席に赤ちゃんを乗せた際、車内に赤ちゃんを置き去りにしないための「nabiシッター」というセンサーパッドだ。
クルマ社会の米国では、車内にうっかり置き去りにされて死亡してしまう赤ちゃんが多数いる。そんな事故を避けるため、インテルのセンサーが入ったパッドをベビーシートの上に置き、その上に子どもを乗せれば、スマホのアプリに子どもの写真が表示され、感知される。
もし子どもを置き去りにしたまま親がクルマから離れたり、子どもがベビーシートから落ちたりすれば、親のスマホにアラート表示が出る仕組みだ。おむつが分厚くても、子どもが厚いジャケットを着ていても、センサーが反応するため安心だという。
ロサンゼルスの子ども用教育タブレットメーカーのFuhuがプロトタイプを作製。「価格はまだ未定だが、今年上半期には100ドル以下で発売予定」とインテルの担当者は言う。2015年のCESではチャイルドシートにシートベルトのようにクリップで留めるインテルのセンサーが赤ちゃん置き去りを防ぐ商品として話題を浴びたが、今回はその進化形と言える商品だ。
もしやiPhoneのSiriの声の人では?スーザン・ベネットさんを直撃
「リアルSiri」のスーザン・ベネットさん。iPhoneのSiriの声を担当した
一方、ロボット、スマート家電などあらゆる最新ガジェットの発表で溢れかえるCES会場で、サムスンは中身の食品が外から写真で見えるスマート冷蔵庫を発表し、ソニーは室内の壁や床にプロジェクターをあてて、ベッドに寝ながら天井を画面にビデオが見られるシステムを発表していた。
4Kテレビと極彩色の映像、ひっきりなしの音楽が溢れる会場で歩き疲れ、会場内の静かな某カンファレンスルームでのセッションに足をとめると、聞いたことのある声が会場に響いていた。
「あれ? この声? もしかしてiPhoneのSiriの声じゃ?」
そう。Siriのボイスを担当したスーザン・ベネットさんがCESに来ていたのだ。まさに「アップルの声」とも言える彼女。早速、直撃インタビューしてみた。
「私、実は日本の日光に住んでいたことがあるんですよ。前夫が古河電工のホッケー選手だったので」とベネットさんは言った。外国人がSiriを使う場合、外国アクセントの英語ではSiriに話しかけても理解されなくてがっかりした、などというケースをよく聞くが、「それについてどう思うか」と聞くと、こう答えが返ってきた。
「どうかがっかりしないでください。アメリカ人でもアクセントの強い人はたくさんいるし、ネイティブの英語でもSiriに通じないこともたくさんあるんですよ」
2011年に10年4日にSiriが世に出てから、2年後に身分を明かすまで、ひたすら沈黙を守ってきたという。「自宅の小さな録音部屋で吹き込んだ声が、世界で一番知られている声になって、最初はとても戸惑ったけど、今ではそれを楽しんでいます」とのこと。
「アップル製品以外、たとえばアンドロイドのスマホなどを使うことは個人的に許されているのか」と聞くと「許されてますけど、使ってません。Siriの声をやる前からアップル製品のファンだったので、家にはアップル製品が溢れている状態だったので」ということだった。
主要エレクトロニクスメーカーのほとんど全てが出展するCESに唯一出展しないアップル。ベネットさんが参加したことで、間接的にアップルも参加したことになるのかもしれない。
あらゆる新製品・テクノロジーを体感できる魅力も、CESならでは
「CES 2016」では、スマートホームやIoTというトレンド用語すら、もう手垢がつきまくったと感じるほどで、競争と変化の激しさを感じさせた。ドローン、自動車、VR、ロボット、エンターテイメントなど、様々な最先端テクノロジーが集結し、それらが家電業界と共生しつつ、各産業間の垣根をぶちこわして、新たなエコシステムを作っていく現場を目の当たりにした感じだ。ここで紹介された技術が商品化され、我々の手に届く日はそう遠くないだろう。
次回のルポでは、そんな未曾有の競争の中で奮闘する日本メーカーが、CES会場に来ていたアメリカの消費者や米テクノロジー専門家、米ジャーナリストから、どんな風に受け止められていたか、赤裸々な現地の生の声に徹底的に迫る。
米ラスベガスで2016年1月6日から9日まで開催された国際見本市「CES2016」の主役は、パソコンや家電ではなく、自動車だった。
世界の大手自動車メーカーが、高度なセンサー技術や人工知能(AI)技術を基盤とした「自動運転車」に関する取り組みを相次ぎ披露。広告やメディア、小売りといった産業を変えた「デジタル化」の波が、自動車産業にも押し寄せている姿が浮き彫りになった。
ただ、同じ自動運転でも各社の戦略は異なる。人間のドライバーを必要としない完全自動運転を強く志向するメーカーがある一方で、自動運転技術は人間のドライバーをアシスト(補助)するものにとどまると主張するメーカーもある。半導体メーカーは、水平分業が浸透したIT産業の力学を自動運転車に持ち込もうとする。各社の発表から、デジタル技術が変える自動車産業の将来像が垣間見えてきた。
完全自動運転を目指す代表格が、米Ford Motorと米General Motors(GM)だ。両社が打ち出したのが、サービス業としての自動車メーカーの将来像。自動運転車を使ったタクシーサービスの提供も目指す姿勢をCES 2016で強調した。
交通サービス市場は630兆円
「自動運転車は大きなビジネスチャンスだ。2兆3000億ドル(1ドル約117円換算で約270兆円)の自動車市場ではなく、5兆4000億ドル(約630兆円)の交通サービス市場で勝負をする機会を得られる」――。FordのMark Fields CEO(最高経営責任者)は、CESの記者会見でこう力説した(写真1)。
写真1●CES 2016で記者会見する米Ford MotorのMark Fields CEO(最高経営責任者)
同社は米国で自動運転車の路上テストを始めており、2020年までに自動運転車を製品化する予定。その際には自動運転車のシェアリングサービスや、自動運転車を使った交通サービスも視野に入れる。既に2015年6月から米国や英国でカー・シェアリング・サービスの実証試験を始めている。
GM(写真2)も自動車相乗りサービスの米Lyftに5億ドル(約580億円)を出資し、自動運転車を使ったタクシーサービスを共同開発すると発表した。
写真2●CES 2016で基調講演をする米General MotorsのMary Barra CEO
自動運転車を使ったタクシーサービスは、Lyftの競合である米Uber Technologiesや米Googleも目論む。Uberは2015年2月に米カーネギーメロン大学と提携し、自動運転車の自社開発を始めている。Googleは2014年5月にハンドルもアクセルペダルも搭載しない自動運転車を発表。2015年から同モデルの路上テストを開始した。
日本でもディー・エヌ・エーとベンチャー企業のZMPが共同出資して設立したロボットタクシーが、2020年までに自動運転車を使ったタクシーサービスの実現を目指している。2020年代には様々なプレイヤーが自動運転車によるタクシーサービスを展開している可能性が高まっている。
フォードやGMに比べ、完全自動運転に距離を置くのがトヨタ自動車だ。同社は2020年までの5年間に10億ドル(約1200億円)の予算を投じて、自動運転のためのAI研究開発を推進する。2015年11月にはAI研究子会社である米Toyota Research Institute(TRI)を設立した。
「完全自動運転は遠い」とトヨタ
ただしTRIのCEOであるGill Pratt氏は「完全自動運転の実現までには、長い道のりがある」と述べる(写真3)。Pratt氏は「現在実現している自動運転技術は、特定の速度、天候状況、道路の複雑さ、交通状況でだけ機能するものに過ぎない」と断言。その上で「トヨタは運転が難しい場面でも人間の助けになるような技術の実現を目指す」と、より長期的な視点で自動運転技術の開発を続けるとした。
写真3●CES 2016で記者会見する米Toyota Research InstituteのGill Pratt CEO
具体的には米スタンフォード大学と連携して、「予期せぬ状況下でも危険を回避できるような人工知能を、機械学習をベースに開発する」(Pratt氏)などとした。
自動車メーカーの中では米Tesla Motorsがいち早く2015年10月に、自動運転技術の製品への搭載を実現した(写真4)。Teslaの電気自動車「モデルS」のオーナーは自動車のソフトウエアを更新すると、高速道路での走行に対応した自動運転機能を利用できる。
写真4●米Tesla Motorsの「モデルS」と同社のフリモント工場
日産自動車は、2016年に高速道路の1車線を継続的に走行できる自動運転車を、2018年には高速道路で車線を変更しながら走行できる自動運転車を、2020年には街中の一般道も走行できる自動運転車を商用化するとしている(写真5)。
写真5●日産自動車がシリコンバレー拠点でお披露目した自動運転車
もっともこれらの自動運転車が、ドライバー不在で街中を走れるようになるかどうかは不明だ。米カリフォルニア州は2015年12月、ドライバー不在での自動運転を禁止する規制案を公表した。米オバマ政権は2016年1月14日、今後6カ月をかけて「無人運転車」のロードマップを検討することや、自動運転車や自動車の安全技術などに10年間で約40億ドル(約4800億円)の国費を投じる予定だと発表した。完全自動運転の実現は、政府の規制次第といった面がある。
PCやスマートフォンのように、自動運転車も部品を買って組み立てれば作れるようになる―― 。そんな自動運転技術のコモディティ化(日用品化)を予感させる動きも出てきた。
画像処理半導体大手の米NVIDIAはCES 2016で、自動運転用の車載スーパーコンピュータ「DRIVE PX 2」と、自動運転を実現するソフト「DriveWorks」を発表。自動車メーカーに対して、自動運転に必要なハードとソフトを合わせて提供するとした(写真6)。
写真6●CES 2016で記者会見する米NVIDIAのJen-Hsun Huang CEO
ハードのDRIVE PX 2は8テラFlopsという「Macbook Proの150台分」(NVIDIAのJen-Hsun Huang CEO)の処理性能がありながら、消費電力を250ワットとPC数台分に抑えている。
ディープラーニングを採用した画像認識ソフトなどを提供
ソフトのDriveWorksは、ディープラーニングを採用した画像認識ソフトの「DRIVENET」のほか、レーザーセンサーの情報を基に3次元地図上での自己位置を特定する機能や、障害物を避けながら進む機能などを備える(写真7))。
写真7●業界最高の画像認識精度を実現したというNVIDIAの「DRIVENET」
NVIDIAのHuan CEOは「自動運転のためのプラットフォームを提供する」と明言する。自動車メーカーは同社のハードやソフトを利用するだけで自動運転車が実現できるようになるという意味だ。
メーカーからサービス事業者へというビジネスモデルの転換と、自動運転技術のコモディティ化。自動車産業は今後、自動運転を軸に激変が進みそうだ。
2016年01月19日TK
テスラの試乗会の様子をリポートする
世界で最初に自動運転車を実用化するのはどの国、どのメーカーなのか。さまざまな憶測が駆け回る中、米国のテスラ・モーターズが日本で動いた。高級タイプの電気自動車(EV)をつくる米国発のスタートアップ(ベンチャー)企業だ。その市販モデルのひとつ「モデルS」で自動運転を実現するためのソフトウェア配布を、1月15日から日本でスタートすることになったのだ。同日、東京の夢の島マリーナを拠点として試乗会が行われたので、その概要をリポートしよう。
縦列駐車もお任せあれ
テスラのニュースリリースによれば、今回のアップデートは国土交通省の承認を受けたことにより実現するものだ。2015年3月には前車追従型クルーズコントロールの提供を開始しており、それに続くアップデートになる。
今回提供したのは、主に高速道路と自動車専用道路で自動運転が可能な「オートパイロット」、ウインカーを出せば自動的に車線を変更する「オートレーンチェンジ」、縦列と直角の駐車が可能な「オートパーク」の3つの機能だ。
これらの内容は、米国運輸省道路交通安全局(NHTSA)の自動運転基準の「レベル2」に該当するもので、まだ人間が運転の主体であり、スバル(富士重工業)が持つ「アイサイト」の最新型バージョン3などと同じレベルに該当する。アイサイトはステレオカメラにより実現した衝突回避や自動追従などの5つの機能を備えた運転支援システムで、自動運転を部分的に実現した最新鋭の技術である。
自動運転の最新鋭の技術
(編集部註)ここでは米政府の国家道路交通安全局(NHTSA)が定義した内容を記載する。一応この定義が先進国の共通認識だ。
レベル0:車の運転に関してコンピュータが介在しない状態
レベル1:自動ブレーキやクルーズコントロールのように部分的にコンピュータが介在する状態
レベル2:操舵(ハンドル機能)が複合的に加わった状態
レベル3:半自動運転。条件次第でドライバーは監視義務から開放可
レベル4:完全自動運転
さらに、米国の自動技術学会(SAE)では無人車の可能性を指摘し、この状態の完全自動運転をレベル5と定義している。
昨年10月に自動運転を先行導入した米国では、運転中に後席に移動するなど、危険な事例が動画サイトにアップされたため、ソフトウェアのアップデートにより、住宅地での作動を制限するなどの改良を行った。今回、日本で導入されるのはこのアップデート版とのことだ。
つねに道路のセンターを維持して走る
リリースではさらに、自動運転中はステアリングに手を置くことが前提であること、オートレーンチェンジは米国ではステアリングに手を触れずに車線を変更できるが日本ではステアリングを握っている必要があること、手放し運転は道路交通法の安全運転義務違反に該当すること、自動運転が有効になっていても運転の責任はドライバーが負うことも記載されている。
「スバルのアイサイトと変わらないじゃないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、筆者がインストラクターとの2名乗車で、首都高速道路湾岸線の新木場ランプと9号深川線福住ランプを往復すると、いくつかの違いが明らかになった。
ペダルは踏まず、両手は軽くステアリングに添えるだけ
行きはインストラクターの運転なので、脇から観察する。ペダルは踏まず、両手はステアリングに軽く添えてあるだけだ。注目は速度が制限速度+αで自動的にセットされたこと。他車でも道路標識を感知してメーター内に表示する機能はあるが、それに合わせて速度調節までしてくれるところが画期的だ。
自動運転を選ぶドライバーは速さを求めない。これが個人的な見解だ。それよりも安全性や快適性を重視するはずだ。よって制限速度周辺にスピードをセットするテスラのシステムは理にかなっていると思った。
ウインカー操作による自動車線変更も、機械が操っているとは思えないほど自然にこなした。そして渋滞路でも発見があった。既存の多くのシステムは、車両が停止するとブレーキを掛けることを求め、再発進の際には軽くアクセルを踏む必要がある。しかしテスラは停止してもブレーキは促さず、前車が発進すると自動的に前進した。これも個人的には初めての体験である。
福住ランプで降り、運転席に移動する。再び首都高速に乗り、本線に合流したところで、ステアリングの左に伸びたクルーズコントロールのレバー先端を2度押すと、自動運転が始まる。速度は自動的に60km/h+αにセットされた。
首都高速を使う方ならご存じだと思うが、9号深川線はカーブが続く。テスラのオートパイロットは、ステアリングを正確に切り、そこを駆け抜けた。おかげで2つ目のコーナーを迎える頃には、不安が自信に変わっていた。
さまざまなセンサーが安全を守る
なによりも制御の細かさに感心した。車線の端に近づくと操舵が入って中央に戻すのではなく、つねに車線のほぼ中央をトレースし続ける。前後バンパーに6個ずつの超音波センサー、車体前方に車間距離などを計測するレーダー、フロントガラス上部にカメラを搭載した多彩なセンサーと、緻密な制御技術がきめ細かさの源だと理解した。
ちなみに解除は、ブレーキを踏むか、ステアリングを左右に振ればいい。首都高速の出口でステアリングを意図的に切ったところ、ゴクッという軽いショックが伝わり、自動運転が終了したことがわかった。
オートパーキングの様子
夢の島マリーナに戻った後、オートパークを試した。
縦列駐車の空きを見つけるとメーターにPの表示が現れるので、停止してPレンジに切り替え、センターのディスプレーに出る自動駐車のボタンをタッチすると、以降はアクセル、ブレーキ、ステアリングをすべて自動で行う。一発できれいに収まらない場合は切り返しも自動で行う。その場合も前後進を切り替える必要はない。
前日に試したトヨタ新型プリウスのパーキングアシストは、ボタンひとつでスタートすることは同等だったが、アクセルやブレーキはドライバーが操作した。それより一歩進んでいる。モデルSは全長4978mm、全幅1964mmという巨大なサイズを持つので、この機能はありがたい。
テスラの自動運転技術は、渋滞時の車線変更など対応しきれていない部分もあるが、人工知能主体で運転する「レベル3」に近づいていると感じた。さらにソフトウエアのアップデートで機能を追加していくという、パソコンやスマートフォンに近い手法は、最新の安全装備が欲しければ車両を買い替える必要がある既存の車より、ユーザー寄りであると思った。
それとともに感じたのは米国らしさだ。自動運転中の責任はドライバーが負うという自己責任の姿勢を明確にしたうえで、国交相の承認を受けたというプロセスは、政府の方針に従うという姿勢が目立つ国内の自動車会社とは一線を画している。
米国はこれまでも日本の交通法規の変更を実現してきた。2005年から高速道路での2輪車2人乗りが認可されたのは、ハーレー・ダビッドソンを擁する米国が規制緩和を訴えた結果である。今回はテスラが国交省との間で交渉を続けた成果というが、持ち前のフロンティアスピリットがわが国のモビリティの未来を切り拓く可能性を秘めていることは間違いなさそうだ。
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2016年01月16日
ヤマハ発動機は、2輪車以外にも多岐にビジネスを手掛けている(撮影:今井康一)
「2輪とマリンだけでは、この先、生き残っていけない」
ヤマハ発動機(ヤマ発)の柳弘之社長は、危機感をそうあらわにする。2015年度、過去最高水準の営業利益1250億円を見込む状況にあるにもかかわらず、だ。
多岐に事業を手掛け、その中から次の成長事業を模索するのが、ヤマ発の“DNA”。1955年に日本楽器製造(現ヤマハ)から分離し、2輪車を主軸にスタートしたが、現在の稼ぎ頭はボートや船外機などのマリン事業となっている。
そして今、新規ビジネスとして注目を集めているのが、実は4輪への本格参入だ。ヤマ発は2013年の東京モーターショーで、2人乗り超小型コンセプト車「MOTIV(モティフ)」を公開。続く2015年にもスポーツカーの試作車を展示し、4輪への挑戦意欲を示し続けてきた。
ここにきて4輪参入の可能性が高まっているのは、ヤマ発が一段上のステージに昇るため、土台作りの時期にさしかかっているからである。
2009年度にヤマ発は、リーマンショックの影響で、2161億円の最終赤字に転落。そこで国内工場の再編などコスト削減に努めた。その後は、円安や先進国景気の回復といった外部要因にも助けられ、業績はV字回復を果たした。
連結営業利益の額はリーマン前の2007年度と同水準でも、収益構成は大きく変化している。祖業の2輪事業に取って代わり、収益を牽引しているマリン事業は、先進国の富裕層が対象顧客。3兆円程度とみられる市場のうち、ヤマ発は約1割を占める。
シェア拡大を目指すが、市場は成熟しており、ここからの成長余地はわずかだ。2015年12月に発表した中期経営計画においても、2015年度から2018年度にかけて、マリン事業の営業利益は70億円の伸びしか見込んでいない。
また、回復道半ばの2輪事業も、かつてドル箱だったインドネシアなど、新興国市場で陰りが見えている。中国経済の減速の影響を受けて需要が縮小。現地通貨安も逆風となり、新興国市場における2輪事業の2015年度営業利益は350億円と、2014年度から11億円の減益を見込む。
2輪事業を押し上げているのは、かつて苦戦していた先進国市場。景気回復に新車の投入タイミングも重なり、2014年度の133億円の赤字から、2015年度は20億円の黒字に浮上する公算だが、利益額では依然として、新興国市場に大きく依存する。新興国には、世界シェア3割と断トツの首位を走るホンダをはじめ、インドのヒーロー・モトコープなど強力なライバルがひしめく。
ライバルのホンダはスケールメリットを生かし、2輪事業の営業利益率が9.9%と高い(2014年度)。対するヤマ発は同2.3%と大きく水をあけられている。ヤマ発の方針は、「台数を追うことなく、7〜8%超の利益率を目指す」(柳社長)、というもの。そのために同社が2012年から着手し、今後いっそう推し進めるのが、車台を共通化するプラットホーム戦略である。これにより開発・生産コストの抑制をもくろむ。
ヤマハ発動機本社でずらりと展示された2輪車(撮影:今井康一)
2輪のプラットホーム戦略は、商品モデル数の絞り込みを意味するものではない。新興国ではむしろ、消費者のニーズは多様化してきており、それに細かく対応していく必要がある。たとえばベトナムの女性は、ハイヒールを履いて2輪車に乗ったとき、他人から美しく見えるかを気にする。だがインドネシアでもそうとは限らない。
そこで車台は国内で開発して共通化し、外観は現地に任せる。中計最終年度の2018年度には、モデル数を対2012年度比6割増にするという。
今後3年間のロードマップは固まったが、問題はその後だ。ホンダやスズキと異なり4輪を持たないヤマ発は、顧客との接点が限られる。消費者の購買行動を考えると、2輪からスタートしたとしても、家族を持つようになれば、4輪へシフトしていくのは自然な流れ。一度接点を持った顧客をつなぎ留めるためにも、4輪への挑戦は避けて通れない課題といえよう。
ヤマ発には4輪技術の蓄積もある。1967年、「トヨタ2000GT」の開発・生産に参画して以来、自動車用エンジン技術を培ってきた。
2019年以降に参入を狙っているのは、欧州の都市で短距離移動に使われることを想定した、超小型4輪車だ。同タイプの4輪車には独ダイムラーの「スマート」などがあり、100万台規模の市場になっている。ヤマ発は販売からアフターサービスまで一貫して対応したうえで、ビジネスとして成り立つか検討を重ねている。2019年から具体的な行動に移るとなると、「今後1年半以内に結論を出さなければいけない」(柳社長)。
業績好調で余裕のある今は、新規事業に挑戦する好機。次の成長の種をまくことができるか、ヤマ発の決断の時は迫っている。(「週刊東洋経済」2016年1月16日号<12日発売>「核心リポート02」を転載)
徐 航明・日経テクノロジーオンライン特約ライター2016/01/18 日経テクノロジー
筆者がいつものように利用している社員食堂に最近、味噌(みそ)汁サーバーが導入された。具材の入った器をサーバーの注ぎ口の下に置いてからボタンを押すと、温かい味噌汁が器に注がれる。簡単ですぐできるので、一杯一杯、味噌汁をよそっていた従業員がいなくなり、行列もなくなった。便利に感じる一方で、この方式の本質は意外と我々が使っている「iPhone」(米Apple社)などのスマートフォン(スマホ)と共通点があるのではないかと思い当った。今回は、その共通点について紹介する。
味噌汁サーバーの仕組み
味噌汁サーバーとは、いつでも出来たての温かい味噌汁を多量に提供する機器だ。その構造はそれほど複雑ではない。専用のパックに入った液体状の味噌を本体にセットし、本体内蔵の水タンクに水を入れ、電源を入れておけば、一杯分の味噌汁がボタンを押すたびに出てくる。内蔵パネルで味噌汁の温度、量、濃さを調整することが可能で、好みや気候に合わせて適切な味噌汁を提供できる。
味噌汁サーバーは、味噌を造る会社として知られているマルコメが機器メーカーと共同で発売した製品だ。2011年の登場以来、どんどん改良されて進化している。食堂やレストランなどの業務用だけではなく、家庭用まで開発されている。
その基本構成は、ハードウエア(マシン)、ソフトウエア(調整プログラム)とコンテンツ(味噌、具材、レシピ)とみなすこともできる。マシン本体は1回購入すれば、壊れるまで使える。一方、味噌や具材は消耗品でそれらに掛かる費用はマシンに比べれば遥かに大きい。すなわち、マシン本体よりもコンテンツとなる味噌と具材の方が大きな収入源となり得るというものなのだ。そのため、マシン本体はレンタルで提供されることも少なくない。この点に目を向けると、同サーバーを主導するのが機器メーカーではなく、味噌メーカーであることもうなづける。しかも、味噌メーカーなら、様々な味を楽しむことが可能な豊富な種類の味噌を用意でき、コンテンツとなる味噌汁の魅力を高められる。現在、マルコメでは同サーバー向けに、地域性を考慮した味、懐かしい味、健康的な味を楽しめる味噌など、全部で十数種類の味噌を提供しているという。同サーバー向けの味噌と具材は全てマルコメが直販している。
iPhoneとどこに似ているか
iPhoneも、大きくはハード、ソフト、コンテンツで構成されている。タッチパネルで操作可能な本体(ハード)と、「iTumes」や「AppStore」で構成されるコンテンツ・プラットフォーム(ソフト)が一体化しており、ユーザーは欲しいアプリや音楽(コンテンツ)をすぐにダウンロードできる。しかも、コンテンツプラットフォーム経由でコンテンツを提供する仕組みを構築したことで、Apple社はコンテンツの売り上げの一部を自社に取り込むことが可能になった。
この構造は、味噌汁サーバーの場合と基本的に同じだ。ハードを提供するだけではなく、コンテンツも併せて提供することで、ユーザーを囲い込む。そうしたビジネスモデルが両者の共通点になっている。
多くの調理家電は、これまではハード単独で機能アップを追求してきた。しかし、ハードだけでは限界がある。食材やレシピも考慮してハードと一体化して付加価値を高められるものはまだあると思う。実際、今回紹介した味噌汁サーバー以外でも、近年、コーヒーサーバーやお茶サーバー、スマホ連携の電子レジなどが誕生してきている。
味噌汁サーバーとiPhoneのビジネスモデルには、違うところもある。iPhoneの場合は、ブランドはハードを提供するApple社。一方、味噌汁サーバーの場合は、ブランドはハードメーカーではなく味噌(コンテンツ)メーカーだ。本来、味噌汁サーバーにおいても、ハードメーカーが自身のブランドで主導権を持ち、複数の味噌メーカーの味噌を使えるような味噌汁サーバーを販売することは可能なはず。ただ、そうなっていないのは、食の分野では食材が大切されることから、食材や食品でブランド力を持つ食材・食品メーカーの方が主導しやすいという側面もあるのかもしれない。
異業種のビジネスモデルの適用
味噌汁サーバーの開発は、先に登場したiPhoneからヒントを得たものかどうかは確認できていないが、異業種のビジネスモデルには参考になる点があるということは間違いない。特に味噌のような成熟業界にとっては、同じビジネスモデルによる同質競争で疲弊するのではなく、ビジネスモデルを変えることにより、同業他社がすぐには追随できない差異化を必要としている。そして、そうした観点から見ると、異業種のビジネスモデルを参考するのは有効な手段の1つである。米Ford Motor社が生み出したベルトコンベヤによるライン生産方式は、同社の創業者であるヘンリー・フォードが食肉加工工場を見て思いついたとされている。
もっとも、異業種のビジネスモデルで気づきを得ても、通常はそのままでは自分の業界には適用できない。そこでポイントとなるのが、そのビジネスモデルをいったん抽象化して、つまりその本質をつかんで、自社へ移植をすることだ。iPhoneと味噌汁サーバーのビジネスモデルの本質は、ハード、ソフト、コンテンツの三位一体でのビジネス展開といえる。
マシンを通じた食文化の伝承と普及
和食を代表する味噌汁は、若者の中では飲む回数が減る傾向にあると言われている。また、海外においては、和食ブームで和食店が大幅に増えている一方、和食がよく理解されないまま提供されているケースが多い。
例えば、昨年(2015年)、ある国際会議で米国西海岸を訪れた時、筆者は会場兼宿泊先のホテルで味噌汁を飲む機会を得た。ちょうど初日の朝だったが、ホテルの朝食のレストランである長い行列ができていた。列に並んでいた人に聞いたところ、味噌汁のための列で、筆者は米国でも味噌汁が飲めると早速に並んだ。周囲を見ると、列に並んでいるのはほとんどが日本人。実は、その会議には日本企業から多くの人々が参加していた。
しばらくして、筆者はコップに入った味噌汁を受け取り、席に戻って早速一口飲んでみた。ところが、いつもの食感がなく、とにかくまずい。これは、本当に味噌汁なのかというくらい今まで飲んだ味噌汁と違っていた。出汁(だし)が入っていなかったのだ。
そのレストランでは、翌朝も味噌汁を提供していた。だが、そこにはほとんど人はおらず、列はなかった。筆者は、レストラン側の方とその味噌汁について少し話をした。実は、その会議の参加者には日本からの人が多いので、わざわざ味噌を購入して提供していたという。しかし、残念な結果となってしまった。このような店に対して、味噌汁の本来の味を適切に提供できるように導くことは、和食を世界に知らしめる上でとても重要なことだろう。
味噌汁サーバーの最大のメリットは、本格的な味噌汁を簡単に提供できることだ。上記のレストランに味噌汁サーバーがあれば、きっと素晴らしいおもてなしになったことだろう。そうした意味で、筆者は、味噌汁サーバーは和食の魅力を海外に伝える活動に貢献し得るものと見ている。日本国内だけではなく海外にも展開することで、本当の味噌汁の味を海外にも伝えやすくなるからだ。ひいては、日本産の味噌の海外輸出の拡大も期待できる。
iPhoneはハード、ソフト、コンテンツの融合によって斬新な顧客価値を提供し、世界的に幅広く受け入れられた。味噌汁サーバーも食文化の伝承と普及に大きな役割を担いつつある。
そうした味噌汁サーバーに対して、筆者は1点だけ気になっていることがある。それはメンテナンスだ。食材が使われるので、定期的なお手入れが必要だ。味噌汁サーバーの各パーツは取り外し可能だが、少し手間がかかる。そこにはマシン改善の余地がまだある。一方、それを改善するための擦り合わせの技術は今後の差異化の要素にもなると考えている。
現在、コンシューマー機器の分野では、いわゆる単品のハードはコモディティー化してきている。そうした状況から脱する一つの方策は、脱単品化を図り、ハード、ソフト、コンテンツの三位一体化によってソリューションやサービスを提供するビジネスモデルに転換することだ。味噌汁サーバーを市場導入した味噌メーカーは、iPhoneのようなビジネスモデルで味噌販売の拡大に成功した。しかも、そのビジネスモデルは、味噌の市場を日本から世界へと拡大するポテンシャルを持っている。成熟産業と見られがちな味噌業界で生まれたこの新しいビジネスモデルは、異業種でも参考にできるところは少なくないはずだ。
にわかに“ざわつく” スマホ診療のなぜ、2025年の遠隔診療:「事実上の解禁」がもたらす変化
2016/01/18 鶴谷 武親=早稲田大学 早稲田ビジネススクール 客員准教授 日経テクノロジー
スマートフォン(以下、スマホ)などのモバイル端末を活用した遠隔診療を実現する動きが、国内でにわかに活発になってきた。背景には、厚生労働省による「事実上の解禁」と捉えられる通達がある。“スマホ診療”の動きは、もちろん日本だけのものではない。今後10年間にわたる医療・健康分野の世界的なメガトレンドを見通した予測レポート「グローバル・メガトレンド 医療・健康の未来 2016-2025」(日経BP社)の企画・翻訳監修を務め、同分野のイノベーションに造詣が深い早稲田大学 早稲田ビジネススクール 客員准教授の鶴谷武親氏が、遠隔診療の変化の兆しを読み解く。
日本国内でも遠隔診療サービスを開始するベンチャー企業が登場し、にわかにざわついている。実態としては、へき地医療や慢性疾患、在宅医療などを中心にこれまでも遠隔診療がなされてきたが、ここにきて、厚生労働省が2015年8月10日に出した通達*1が、一部の関係者に「遠隔診療の事実上の解禁」として捉えられていることが大きい。
*1 厚労省が2015年8月10日に出した通達は、こちら
これは、いわゆる「平成9年遠隔診療通知」の解釈について、従来は「限定」として解釈されていた具体的利用環境や疾患について、「例示にすぎない」としたものであり、結びとして「患者側の要請に基づき、患者側の利点を十分に勘案した上で、直接の対面診療と適切に組み合わせて行われるときは、遠隔診療によっても差し支えないこととされており、直接の対面診療を行った上で、遠隔診療を行わなければならないものではない」としたのである。
また同時に、政府・与党のさまざまな会議や検討会、さらには「骨太の方針」などを通じて、「医療におけるICT(情報通信技術)の利活用」や、中には具体的に「遠隔診療」という言葉が発信されるなど、「政府・与党の意図」が伝わるようになったことも大きい。もちろん、止まらぬ医療費の増大という社会背景や、グレーゾーン解消など政府・関係者が地道に進めてきた改革のお膳立ても大切な要素であろう。
そして、これらの変化を敏感に捉え、まずはベンチャー企業が動き出した。自己採血ステーションの登場やドラッグストアにおけるさまざまな検査の実施、そしてついには遠隔診療が登場したのである。
例えば、IT関連企業のポートは、スマホなどを用いて医師の診療を受け、必要に応じて医薬品を受け取れる遠隔診療のサービス「ポートメディカル」を2015年11月に発表した*2。
ポートの提供する「ポートメディカル」の仕組み(画像:ポート)
*2 ポートメディカルについての発表資料は、こちら
公教育と並び、「変わらぬ業界」と信じられてきた医療の現場も、少しずつ変わろうとしている。我々国民はその契機を前向きに捉え、社会の全体最適はもちろんのこと、世界に先行する高齢社会として地球規模の貢献を目指していきたい。
もっとも、医療のイノベーションの動きは日本に限ったことではない。むしろ、制度や文化など、市場環境の異なる世界各国では既にさまざまな「実例」が生まれつつある。
例えば、最近リリースされたばかりのサービスに、「CliniCloud」がある。このサービスを手掛けるCliniCloud社は若い2人の医師によって設立されたスタートアップ企業である。「ヘルスケアIT」であると同時に「IoT(Internet of Things、モノのインターネット)」の側面も持つベンチャー企業として注目されている。
CliniCloud社の提供するデジタル体温計(左)とデジタル聴診器(右)(写真:CliniCloud社)
同社の開発・販売する製品は、小型の個人用デジタル聴診器とデジタル体温計だ。スマートフォン(スマホ)に接続することで心音、肺音、体温という基本的な健康データがスマホ上およびクラウド上に記録され、必要に応じてインターネットを通じて医師と共有し、遠隔医療サービスを受けられる、というものである。
スマホを通じて家族の健康情報が時系列で蓄積される(写真:CliniCloud社)
価格は149米ドル、日本円にして1万8000円程度である(2016年1月4日現在)。また、興味深いのは、「CliniCloud」を購入すると、これまた注目ベンチャーである「Doctor On Demand」という遠隔医療サービスの1回無料診察クーポンが付いてくるのである。
スマホを通じて遠隔診療の予約が可能(写真:Doctor On Demand社)
この「Doctor On Demand」も同じく注目のベンチャーである。
同社の経営メンバーにも医師がいるが、実質的創業者で取締役会議長のJay McGraw氏は、現在36歳。少年の頃から啓発本のベストセラーを書くなど、著名な文化人型セレブ(有名人)である。テレビ制作会社のCEO(最高経営責任者)を務め、有名なテレビ番組の制作や司会などをしてきた。
ちなみに、彼の父親は「Dr. Phill」として全米で知られる、著名医師のPhill McGraw氏。彼の名前自体がテレビ番組名になるほどの著名人で、2015年の年収は7000万ドル(約84億円、同)と、『Forbes』誌の世界高収入セレブランキングで15位となった人である。
Doctor On Demand社によるサービスのイメージ(写真:Doctor On Demand社)
米国医師会の推測では、オンラインによる医療サービスを充実させることで、外来診療の70%が不要になるという。70%の精度は不明だが、日本の医療現場における実感とも決してかけ離れていない見込みであろう。医療資源の不足や偏在が叫ばれて久しいが、社会環境・技術環境の変化を捉え、さまざまな改善や役割分担を進めていけば、「破綻寸前」と言われる日本の医療制度もまだまだ継続可能かもしれない。
日本の安全を考える時、民間の警備会社の存在が欠かせない。それは人手による警備だけでなく、いわゆる「警備システム」による、常時監視とアラーム発報時の一次対応である。仮に、こうした「インフラ」がなければ、現状25万人程度の警察官は、数倍は必要だったと言われている。
現状、約30万人でも不足していると言われる医師も、技術を駆使した常時監視と1次医療対応の役割分担により、状況は改善されると考えるのは単純すぎるだろうか。日本のお家芸であるイノベーションと高いサービスレベルに期待したい。
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4.Society.Culture・Edu.・Sports・Others
山田 泰司=EMSOne 2016/01/18 日経テクノロジー
世界中でヒットを飛ばしている「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」。『日本経済新聞』(2015年12月22日付)によると、公開から同年12月20日までに週末興行収入が世界で5億2900万米ドル(1米ドル=118円換算で約624億円)に上り、「ジュラシック・パーク」シリーズの2015年公開作「ジュラシック・ワールド」が打ち立てた5億2500万米ドル(約620億円)を抜いて、史上最高を記録した。
2016年1月9日の土曜日から上映が始まった中国でもフォースの覚醒の出足は好調だ。中国のネットメディア『Mtime』(2016年1月10日付)によると、公開初日の興行収入は2億300万元(1元=18円換算で約37億円)で、初日の成績としては「ワイルド・スピード SKY MISSION」の3億5000万元(約63億円)、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」の1億9000万元(約34億円)に次ぐ史上3位を記録した。また、『SOHU.com』(2016年1月12日付)は、公開第1週の週末興行収入が3億4200万元(約62億円)に上ったと報じている。中国メディアは、フォースの覚醒が世界興行収入で歴代1位の「アバター」(27億9000万米ドル、約3292億円)、2位の「タイタニック」(21億9000万米ドル、約2584億円)を抜けるかどうかは中国市場の結果次第だが、滑り出しが好調だったことから、歴代首位に躍り出るのは確実だとの見方を示している。
中国でも「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」宣伝は大々的に行われている
上海の人民広場駅構内で2016年1月12日撮影。
さて、このフォースの覚醒、関連グッズの売り上げだけで世界で1兆円が見込まれるとも言われるが、中国の玩具業界にも巨額の売り上げをもたらすことが期待されているようだ。
伝えているのは中国紙『参考消息』。外電のニュースを専門に掲載する日刊紙だが、2015年12月16日付で、ドイツの日刊紙『Die Tageszeitung』の記事を紹介している。
記事は、世界の玩具の75%を製造していると言われる中国の玩具業界ではここ数年、スマートフォン(スマホ)のゲームなどの台頭で苦境に陥っていたが、フォースの覚醒が救世主になる可能性があると指摘。米Walt Disney社が公開に先駆けて2015年9月4日から、ライトセーバーやフィギュアなどフォースの覚醒関連グッズの販売開始イベント「フォースフライデー」を世界同時に行うなど、早くからグッズの販売に注力しており、その市場規模は玩具業界だけでも30億米ドル(約3540億円)規模に上るとした。また、玩具メーカー米Hasbro社の中国にある協力工場では、Hasbro社が販売するフォースの覚醒関連玩具の製造に従業員が連日の残業体制で臨む状況が数カ月にわたって続いていると報じ、これら協力工場では、2017年に公開予定の「スター・ウォーズ・エピソード8」まで関連玩具の需要が続くものとみて、従業員の採用を増やすなどして生産体制を拡充しているとしている。
同記事によれば、米国のあるアナリストは、「労働コストは明らかに上昇したが、中国はなお世界トップの玩具製造国だ。中国よりも賃金の安いその他の国・地域は、玩具の製造から輸出までの一貫体制の整備の度合いで中国にはるかに及ばないのが現状だ」との見方を示している。
過去十数年、オリンピックやサッカーのワールドカップなど、大きなスポーツイベントが近づくたびに、中国メディアに「中国製造」という文字の躍る頻度が増えるという状況が続いてきた。関連グッズのほとんどを中国が製造しているという記事で、「世界の工場・中国の製造業がなければオリンピックやワールドカップは成り立たないのだ」ということを強調するものだ。
例えば、2010年に南アフリカで開催されたサッカーのワールドカップでは、観衆が南アフリカの民族楽器「ブブゼラ」を吹いて応援する姿が印象的だったが、中国紙『毎日経済新聞』は2010年6月17日付で、プラスチック製ブブゼラの9割は中国で製造されたものであり、工場の大半が広東省や浙江省にあると報じていた。
2012年のロンドンオリンピックでも、「オリンピック記念品の65%は中国製」(中国紙『中国文化報』同年7月20日付)、「開会式で打ち上げられた花火の4分の3は中国湖南省製」(『網易』同年7月30日付)など、中国製が大会を支えているとアピール。さらに、2014年サッカーワールドカップドイツ大会では、例えばネットメディアの『騰訊網』(同年第179号)で、「公式球は広東省深セン、トロフィーのレプリカは広東省東莞、競技場のモニターは深センと湖南省長沙、公式キャラクターのぬいぐるみは浙江省杭州、大会に使用された出場国の国旗は浙江省金華でそれぞれ製造され、サッカー場の電動式広告に電力を供給する太陽光パネルは河北省保定で組み立てられた」とこれでもかとばかりに中国製の品々を並べ立てていた。
廉価で豊富な労働力を背景に「世界の工場」の役割を果たしてきた中国は今、所得の向上で消費・サービスなど第3次産業中心へと構造転換を遂げようとしている。こうした中、フォースの覚醒関連グッズでは、コストは高いもののなお世界の玩具製造をリードする地位にあることを見せつけた。今夏開催されるリオデジャネイロオリンピックの関連商品でも、中国の製造業は再び存在感を見せつけるのか。それとも、中国に代わる存在が台頭するのだろうか。
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5.Economy・Politics・Military Affaires
2016年01月19日 TK
昨年12月に開業したばかりの上海新店。中国では2016年度末200店を計画している
「無印良品」を展開する良品計画が快走を続けている。
1月7日に発表した第3四半期(3~11月期)連結決算では、売上高が前期比19%増の2267億円、営業利益が同45%増の258億円と2ケタの伸びをみせ、過去最高を記録した。国内外ともに好調で、2016年2月期通期の業績予想を上方修正。売上高は初の3000億円台に到達し、中期経営計画を1年前倒しで達成する見通しだ。
上方修正の要因で特に大きいのが好調な中国である。スキンケア用品やフレグランス用品を中心としたヘルス&ビューティーへの支持が特に高い。化粧水など価格のお手頃感が受けており、中間層に爆発的に売れているという。中国を含む東アジア事業の3~11月期の営業利益は、前期比2.1倍の116億円と急伸しており、営業利益の構成比率では東アジア事業が半分に迫る勢いだ。
2015年12月には中国・上海で、売り場面積840坪を超える、世界旗艦店「無印良品 上海淮海755」も開店した。前年の成都に続く大型店で、売上高は好調に推移しているという。中国では店舗数を毎年30店の純増ペースで伸ばしており、2016年度末に200店の大台に届く見込みだ。
好調な要因は、出店拡大だけでなく、商品アイテム数を拡充していることも大きい。足元では食品やヘルス&ビューティーの分野で相次ぎ投入している。松崎暁社長は、「上海では食品アイテム数を成都の88から150に増やした。中国における食品売上高の構成比は2~3%程度だが、上海では14%に上昇している」と語り、食品が顧客誘因の動機付けになっているとみる。「今後はほかのお店にも、食品とヘルス&ビューティーの投入を増やしていく」(松崎社長)。
中国など海外が伸びているのは、日本の小売業ではユニクロと同じ構図だが、無印がユニークなのは、ほとんど広告宣伝費をかけていないこと。大量販売を追わず、地元の文化人やアーティストなど発信力のある人による口コミなどで評判を高めつつ、一般大衆にファンを広げていく戦略だからだ。進出国も、ユニクロの17カ国・地域に対して、無印は新興国も含めて26カ国・地域と幅広い地域に出ているのは、そうした戦略の違いもある。
さらに松崎社長は「中東でアクセルを踏む」と宣言。今年中にサウジアラビア、カタール、バーレーンの中東3カ国に、新規出店する方針も掲げた。中東エリアでは、原油価格下落で消費者の購買力が落ちているものの、すでに3店展開するアラブ首長国連邦(UAE)でのライセンス事業が好調なためという。さらに今年はインドへも初出店する方針で、日本の小売りとしては異例の海外展開を進めている。
国内も堅調だ。ユニクロが足元で失速しているのとは対照的に、無印は主力の婦人ウエアが17%増(3~11月期)と、衣服・雑貨事業も含めて全般的に調子がいい。暖冬の影響で、11月はニットなど一部商品が伸び悩んだが、今期からシーズンごとの発注回数を2回から3回に増やすなど、発注量を調整。在庫数は衣服・雑貨で前期の79.6%の水準まで減らしており、在庫コントロールがうまくいっていることが伺える。
戦略商品に掲げる「体にフィットするソファ」は、2002年の発売以降、14年目にして過去最高の売上高を記録。SNS(交流サイト)で、「人をダメにするソファ」として注目されたのをバネに、増産体制の構築や店頭での展開を強化したことが奏功した。そのほか、「スチールユニットシェルフ」や「スタッキングシェルフ」をはじめ、ファニチャーも人気が高いという。
既存店売上高は、客数でみると、ユニクロと同様に前期割れが目立つが、付加価値の高い商品「こだわりたいね」の構成比率上昇で、客単価が大きく上昇したことが奏功している。
さらにはインバウンド需要も取り込む。中国人など外国人には、アロマディフューザーやハードキャリーケース、壁掛け式CDプレーヤーなどが人気商品であり、免税実施店(現56店)での免税売上高構成比は8.9%に上り、客単価は1万8500円と高水準だ。
2015年6月に就任した松崎社長は西友出身。2005年から良品計画に転じ、海外事業部を長く担ってきた。今後は日本で成功した店舗運営、人材育成の仕組みを、海外にも積極的に移植していく方針だ。海外でも「MUJI」は勝ち続けることができるのか、要注目である。良品計画の会社概要 は「四季報オンライン」で
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2016年01月19日 『ハーバード・ビジネス・レビュー』編 DOL
チームビルディングのために、ありがちな共同作業や小旅行などが実施されることは多いが、時間やお金がかかるうえ、参加者自身が価値を見出せていないケースも多い。では、何をすればよいのか。それは一緒に食事することである。食事にはどのような効果があり、企業はその効果をどう活かすべきなのか。『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2016年2月号よりお届けする。
チーム力を高めるうえで効果的な研修はあるのか
従業員同士の絆を築くために途方もない努力を払う会社がある。たとえば、ディスクドライブメーカーのシーゲイト・テクノロジーでは、CEOだったビル・ワトキンスが、200人の従業員をニュージーランド中部の40キロ冒険レースに連れ出していた。
『フォーチュン』誌のジェフリー・オブライエンはシーゲイトの「エコウィーク」を、従業員への慰労としてではなく、究極のチームビルディングの試みとして存在する激励会みたいなもの、と表現した。オブライエンによれば、ワトキンスは「エコウィークがもっと協力的でチーム志向の会社づくりに役立つと考えている」と言う。
チームビルディングの取り組みは、その大半がもっとありふれたものばかりである。多くの企業は、ロープコース(チーム単位でフィールドアスレチックのようなコースに挑む)、トラストフォール(人の胸から肩ぐらいの高さの台に立って後ろ向きに倒れ、それを10人程度の仲間が手で支える)、ゲームなどを盛り込んだ小旅行を計画する。そうしたプログラムでも時間やお金がかかり、目配りが必要である。さらに悪いことに、多くの参加者はそれに価値を認めていない。トラストフォールなどは誤った方法の象徴として、「こんなことで社員の間に親近感を生み出そうなんて」とばかにされることが多くなった。
消防士たちは食事をともにすることでパフォーマンスを上げている
団結力があり、パフォーマンスの高いチームをつくりたいのはわかるが、それにはもっとよい方法があるはずだ。そしてどうやら、本当にそれはありそうだ。コーネル大学のケビン・クニフィンをリーダーとする研究者たちは、一見簡単そうな方法を探し当てたと言う。つまりチームメンバーが揃って食事をするのだ。
一緒に料理をつくって食べるという行為(学者はこれを「コメンサリティ」〈commensality〉と呼ぶ)など平凡すぎて、研究調査の価値もなければ、経営者が関心を持つ価値もないと考える向きもあるだろう。ところがクニフィンらは、食べるというのは極めて根源的な行為なので、たとえ1日に3回(かそれ以上)行うとしても、非常に大きな意味を持ちうるのだと指摘する。
クニフィンら研究者はある調査で、被験者の恋人とその昔の恋人が、一緒にどんな活動をしていたら、被験者自身やその親友はどの程度嫉妬したり、不快に感じたりするのか、日々のさまざまな活動について想像してもらった。その結果、恋人が昔の恋人と昼食を取っているシーンを思い描いた時に、嫉妬心が最大となった。2人がメールや電話をしている、さらには食事を伴わずに直接会っているシーンを考えた時よりも、はるかに大きな嫉妬を被験者は感じたのである。
ここから、食事をともにするという行為には何か特別な親密さがあるらしいとわかる。しかし、それがチームビルディングとどう関係するのか。
クニフィンとその同僚は直近の論文で、シフト勤務中に一緒に食事を用意して食べる消防士たちを取り上げている。消防署でともに食事を取るというのは、神話に近いものさえ生み出した一つの伝統である(合わせて、消防署がテーマの料理本も数多く出ている)。研究者たちは考えた。一緒に食事を取る消防士は、そうでない消防士より仕事ができるのだろうか──。
クニフィンは米国のある中規模都市の13の消防署を訪れ、その後、395人の隊員を調査した。この都市では消防署内にキッチンやダイニングスペースを設けているが、食事は提供しない。したがって消防士たちが集めた金をプールし、料理のスケジュールやメニューを考え、自分たちで食事をつくる。参加義務はないが、多くの消防署では参加するのが一般的だ。家庭を持つ消防士の中には、家で食事を取り、消防署で2度目の食事をする者もいる。あるベジタリアンの消防士は、自分専用の食事を職場でつくり、チームメートと一緒に食べていた。
消防士たちは、一緒に食事を取るという行為はチームが効果的な働きを続けるための中心的な要素だと答えている。これによってチームは家族のような雰囲気になり、メンバーが仕事に出ていない時も結束力が保たれる。
その後続いて消防隊員を調査したクニフィンは、彼らの直感を裏づける材料を見出した。消防士たちは、一緒に食事を取ることとチームパフォーマンスの間にはプラスの相関関係がかなりあることを明らかにした。
たとえば協力的な行動については、一緒に食事を取るメンバー同士のほうが、そうでないメンバーに比べてほぼ2倍のスコアを示した。消防士の食習慣を支える協力行動──集金、準備と計画、会話、そしてもちろん食事──はすべて仕事中のグループパフォーマンスを高めるものである、とクニフィンらは主張する。彼らはこう書く。「はたからは無駄または不要に思える行動が、結局は組織のパフォーマンスにとって極めて重要なのだ」
企業ではどのように取り入れるべきか
企業は、社員が職場で食事をする場所、時間、方法などをめぐる投資や促進策について、じっくり検討すべきである。多くの大企業には社員食堂があるが(外部のケータリング業者がサービスを提供することも多い)、グーグルなど、もっと先を行く企業があることもよく知られている。質の高い多様なメニューを無料で提供しているのだ。これらの企業は無料の食事を使って従業員を社内に留まらせることで、生産性を高める(移動に時間を使わなくて済むから)だけでなく、仕事仲間が一緒に食事を取る可能性も増やしている。
社員食堂や食事に対する会社からの援助がない企業でも、先の研究結果を活用することはできる。チームリーダーは会議室でテイクアウトの食事を振る舞ってもいいし、みんなを誘って近くの店にランチを取りに行ってもいい。あるいは、次回のオフサイトミーティングではトラストフォールなどやめて、メンバー全員で手の込んだ料理をつくってはどうか。
ただし、やりすぎは禁物だと研究者たちは念を押す。「会食」にはマイナスの効果もある。その最たるものは「島国根性」だ。仲間内でしか付き合わないチームメンバーは、他の従業員や外界から切り離されてしまう危険がある。
第2に、新しいメンバーが「順応しなければ」と過度なプレッシャーを感じるおそれがある。結束の強いチームに加わるのはとかく緊張するものだ。
そして第3に、排他的な食習慣により(ハイスクールの食堂を思い浮かべるとよい)ローパフォーマーが排斥される可能性がある。クニフィンの調査では消防士の間でもこうした現象が観察された。
とはいえ全般的に言えば、食事をともにするメリットはデメリットに勝っている。建築家やオフィス設計者は、従業員の偶然の出会いを促し、コラボレーションを強化するスペースの重要性をよく口にする(しばしば引き合いに出される例は、スティーブ・ジョブズがピクサーの新しい本社で唯一のトイレを中央のアトリウムに配置したがったという話である。そうすれば、さまざまな部門のスタッフが顔を合わせ、言葉を交わさざるをえない)。偶然の出会いはコラボレーションの強化に一定の役割を果たすが、ともに食事をする機会を促すためにスペースや時間、資源を使えば、もっと効果が出るかもしれない。
編集部/訳(HBR 2015年12月号より、DHBR 2016年2月号より)Team Building in the Cafeteria
(C) 2015 Harvard Business School Publishing Corporation.
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