2015年12月8日付
(15年度No.43,通算No.354)
1.特集
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【欧州・その他地域関連】
【世界経済・政治・文化・社会展望】
2.トレンド
3.イノベーション・モチベーション
4.社会・文化・教育・スポーツ・その他
5.経済・政治・軍事
6.マーケティング
7.メッセージ
記事
1.今週の特集
深層中国 ~巨大市場の底流を読む 第73回
デジタルでつながる中国の「個」 ~中国的クラウドソーシングは社会を変えるか 田中 信彦 2015年11月27日 WISEDOM
中国革命の父と呼ばれる孫文が「中国人は乾いた砂(一盤散沙)のようだ」と言ったという話は有名だ。いくら握ろうとしてもまとまらない。この連載でも過去に中国は「個」を中心とした原理で動いている社会であるという話を何度かしてきた。日本人の価値観から見れば「誰もが自分のことしか考えていない」社会で、効率が悪く、デメリットが強調される傾向が強いのだが、最近、情況に変化が現れつつあるように感じる。
その背景にあるのは社会のIT化、デジタル化の進展だ。たとえば「中国的なクラウドソーシング」の急速な普及に見られるように、「個」を軸にした中国の社会のメリットが逆に有効に機能する場面が目立ってきているように思う。今回はそういう話をしたい。
人気を呼ぶ「並び人」手配システム
先日、妻が経営する店の女性スタッフたちの会話を聞いていたら、「今晩、仕事が終わったら皆で御飯を食べに行こう」という話をしている。討議の結果、近くの火鍋料理店に行くことに決したのだが、この店は予約を受けない。いつも行列で、長く待たされる。妻の店の閉店時間は午後8時である。すでにお腹が空いている。すぐ食べたい。そこで取り出したのがスマートフォンである。
最近、上海などの大都市を中心に「隣趣(Linqu)」というスマートフォンのアプリが人気だ。簡単に言えば、自分たちの代わりに列に並んでくれる人を探すアプリである。飲食店の名前を入力し、並んでほしい時間を指定し、ネット決済のスタンダード「アリペイ(AliPay、支付宝)」で規定の料金(最低6元、1元は約20円)を支払うと、その飲食店の近くにいる誰かが反応して店に赴き、列に並んで、もし順番が来たら席に座って場所を確保しておいてくれる。そういう仕組みである。
この日、我が店の女性たちは早々にこのアプリで「並び人」を手配し、午後8時に仕事を終えて火鍋店に向かった。後で聞いたら、このシステムそのものは有効に機能し、店の前で並んでくれていた初対面の「並び人」氏から列を引き継いだのだが、その時点でまだ相当の人が待っており、結局それから30分ほど待たされてお腹が減って死にそうだったということだった。
それはさておき、このアプリのすごい点は、その飲食店の近くにいる「人」をそのまま手配してしまうところにある。これぞ究極のクラウドソーシング(crowdsourcing、中国語で「衆包」)というべきだろう。シェアリングエコノミーの代表格とされる「Uber」が個人の空いている車をハイヤー・タクシーのような旅客運送に活用し、「Airbnb」が個人宅の空き部屋を旅行者の宿泊先として提供するものだとするならば、この「隣趣」の「並び人」手配サービスは、近くにいる、時間に余裕のある人を行列待ちという業務に活用する「人のシェアリングサービス」ということができる。
その基本的な構造は「Uber」や「Airbnb」と同様で、発想自体は新しいものではない。しかし、日常的なレストランでの外食時に、特に富裕層でもない会社勤めの若い人たちが「列に並んでくれる人を探すアプリ」を自在に活用している風景は、おそらく中国以外では見ることのできないものだろう。そこには中国社会の「社会と人の関係」とか「人と人の関係性」といった要素が色濃く反映されている。
「Uber」の仕組みに学ぶ
このあたりの情況を一歩深く考えるために、「隣趣」というアプリケーションについて、もう少し詳しく紹介しよう。
「隣趣」の創業者は上海出身の劉偉力(LiuWeili)という人で、もともと物流会社でシステム構築の仕事をしていたが、起業を志して独立。当初は大型マンション内の住民どうしのコミュニケーション支援システムのようなものを立ち上げた。住民には歓迎されたが事業化はうまく行かず、撤退のやむなきに至ったが、その中で住民、特に高齢者の宅配ニーズが強いことを実感する。
次に立ち上げたのが、果物の宅配サービスだった。私の実感でも中国では日本よりも果物を好んで食べる人が多い。街角の果物店も多く、競争も激しい。劉氏は自ら宅配のチームを編成し、大規模なマンション群のある地域で果物店と協力し、宅配業を始めた。それなりに需要はあるものの、問題はデリバリーだった。注文には曜日や時間帯などの大きな波がある。それに合わせて人を確保すれば、閑散時には余ってしまう。人の定着も悪い。遠いところから注文があれば、わざわざ行って戻って来なければならない。効率が悪い。
悩んでいたところに劉氏が知ったのが「Uber」の仕組みである。人は常に忙しいわけではない。果物店の近くにも必ず手の空いた人はいる。仕事や子育て、学業などの合間に短時間なら手を離せるという人もいる。だったら顧客の近くにいるそういう人に、代わりに運んでもらえばいい。それなら何も商品はフルーツに限る必要はない――。ということで、劉氏は改めて外食産業のデリバリーに焦点を定め、2014年春、現在の「隣趣」を立ち上げる。
「人」の角度からビジネスに切り込む
ユニークだったのは、「商品」ではなく「人」の角度からこのビジネスに切り込んだことである。飲食店のデリバリーサービスは中国にも以前からあったし、宅配専門のウェブサイトやアプリもあった。しかしそれらは店の側からの発想で、まず自分が売りたい商品があり、それをいかに届けるか――という視点からスタートしていた。しかし劉氏は、まず世の中には時間に余裕のある人、時間を有効に活用したい人がいる。そして誰もが、できればお金を稼ぎたいと思っている。その「人」を有効に活用するにはどうしたらいいかという点から考えた。そこから「隣趣」の独自性が生まれた。
劉氏はまず、上海有数の繁華街である徐家匯周辺で、大型マンションなどにチラシをまくなどの旧来型の手法でデリバリーの注文をしてくれる顧客を開拓。最初は固定のアルバイトを採用してそのオーダーに応える一方、近くの住民や周辺のオフィスに勤務する人々を対象に、個人の空き時間に配達を引き受けてくれる登録者を募集した。
外食の宅配注文は昼食と夕食の時間帯に集中するから、会社勤めの人なら昼休みに近くの飲食店から近隣のオフィスビルに届けるだけで数件の仕事はこなせる。退勤後に夕食の配達をやってもいい。学生はさらに自由度が高いし、普段は家にいる退職後の高齢者も、スマホさえ使いこなせれば有力な資源である。この狙いが当たって、徐々に個人の配達人登録者が増え始めた。
「ヒマな人」の活用で圧倒的スピードを実現
軌道に乗ってくるとこの仕組みは強い。なにしろ速いのだ。顧客がスマホアプリで注文すると、その飲食店の近くにいる登録配達人が仕事をキャッチする。配達人は店に行って代金を立て替え払いし、品物を持って電動バイクや自転車、徒歩などで注文者に直接届ける。顧客は注文時に前述の決済システム「アリペイ」で代金の支払いを済ませているが、この時点では代金はアプリ上で凍結状態になっている。商品が注文者に届き、注文者が確認のワンタイムパスワードを配達人のスマホに入力した上で、配達人に一定以上の評価をすると、その時点で商品代金+配達料が配達人の口座にチャージされる。
当初は飲食店とは特定の協力関係を持たず、配達人が普通の客と同じく店に行って料理を購入し、届けていたが、ほどなく飲食店のほうが積極的になり、「隣趣」のアプリと飲食店がネット上で連結、お客が自宅で注文、決済すると同時に飲食店では料理を作り始めるようになったので、配達速度はさらに速くなった。従来の飲食店主導のデリバリーでは、注文が集中すると人手が足りず、配達が大幅に遅延したり、1人が一度に複数の配達先を回るために料理の味が落ちたりしてしまうことがあったが、「隣趣」は注文集中時には配達料金を割り増すなどの手段で、より多くの配達人を集めるなどにより、迅速な対応を実現している。
個人の評価が収入に直結
評価・賃金システムもユニークだ。「速さ」と「態度」が収入を決める大きな要素になっている。配達人の収入は基本配達料(距離によって6元、8元、12元)、時間ボーナス(規定の時間内に届けると3元)、服務態度ボーナス(3元)の3部分からなっている。もし近距離で規定時間内に配達を終え、注文者からも5段階で最高の5つ星評価を獲得すれば、一度の配達で12元の収入になる。通常の配達人で1日に10件程度、多い人は30件以上の配達をこなすと言うから、仮に1日100元の収入としても、平均月収が4000~5000元の世界だから、馬鹿にはならない。
また、顧客の注文をどの配達人が受注するかは、その配達人の現在地が大きな要素ではあるが、それだけではなく、その配達人の過去の評価も加味し、高評価の配達人には優先的に仕事が配分されるようになっている。配達人は自分個人の評価を上げることが収入増に直結するため、顧客に対して優良なサービスを提供しようというモチベーションが働きやすい。
実は私もこのアプリケーションの愛用者である。先週の日曜日、妻は仕事で出かけてしまい、家で一人、原稿を書いていたので、昼に近くのショッピングモール内にある日系の讃岐うどん店に「隣趣」経由でデリバリーを頼んだ。アプリを立ち上げると、位置情報を読み込んで自宅の周囲にある飲食店がズラリと表示される。お目当ての讃岐うどん店を選び、画面にタッチすると、メニューの写真と値段が出てくる。そこから牛肉うどん(中碗、27元)、いなり寿司(6元)、温泉たまご(4元)を選んで、合計金額に配送費を加えてアリペイで代金を決済する。
すると「配達人を手配しています」という表示が出て、ほどなく張某さんという配達人の名前と写真が画面に出てきた。この人はすでに653回の配達実績があり、平均配達時間は24分であるとのデータもある。過去20回の顧客の評価一覧も出てきたが、すべて5つ星だった。もちろんデータの信頼性について確証はないが、一定の目安にはなる。さらに次の画面では周辺の地図が表示され、「店を出ました」「現在地はここです」という表示が刻々と変化する。画面を見て「ああ、もう我がマンションの敷地に入ったな」と思ったら、次の瞬間にピンポンとドアフォンの音がした。店が近いこと、うどんという商品の特性もあってか、注文から自宅に届くまでわずか13分だった。
デリバリーから席取り、買い物へ
冒頭で紹介したレストランでの「並び人」の手配は、実はこの外食デリバリーアプリの延長線上にある付加機能である。どうせレストランの近くに個人の配達人がたくさん登録されているのだから、時間がある人に列に並んでもらえばいい。レストランの順番待ちは主に夕食時間帯だから、学生の副業にちょうどいい。どうせ待つのが仕事だし、中国の人気店には順番待ち用の大量の椅子が必ず用意されているので、座って本を読むか、スマホでチャットでもしていればいい。それでお金になるならこんなありがたいことはない――という話らしい。
こちらも基本料金は6元だが、待ち時間が長い場合には加算がある。さらにお客がアプリで「並び人」を募っても仕事を受ける人がいない場合、オークション式に報酬を上げていくこともできる。このあたりの仕組みも、混雑時間帯には自動的に料金が上がるUberの仕組みと共通するものがある。「個人」「市場原理」「評価と報酬の連動」といった原則がいたるところに組み込まれているのである。
現在、「隣趣」には、こうした飲食店のデリバリーや「並び人」の機能のほか、買い物代行、ペットの散歩、近隣への荷物の配送といった仕事を、自宅近くにいる人にその場で依頼できる仕組みが組み込まれている。すでに上海だけでなく北京、広東省広州、浙江省杭州の4ヵ所で業務を始めており、配達人や「並び人」の登録者数は3万人近くに達するという。中国全土で100店舗以上を展開する日系ブランド「無印良品」との提携もスタートしており、ボールペン1本でも(配達料は必要だが)、おおむね30分以内で届けてくれる。
日本国内にも同様のクラウドソーシングによる「お仕事依頼サイト」的なものや文具類などの即日配達サービスもあるが、この「隣趣」のように、まるでタクシーでも呼ぶように、近くにいる人に、その場で融通無碍に仕事を依頼できる仕組みは、日本ではシステム的には可能でも、実現は難しいだろう。それは「人と社会の関係」が異なるからである。
「個」の自立が前提の中国社会
このような「人」を手配するアプリが中国で急速に広まる背景には、いくつかの理由がある。最大のものは「個人意識の強さ」である。逆に言えば、国や会社など組織への帰属意識が薄い。大切なのは自分が「幸せに生きていく」ことであって、組織に所属するかどうかは、あくまで手段の問題にすぎない。だいたい会社などというものは、投資家や経営者が儲かるようにできているのが当たり前で、そんなところに所属してもいい目を見ることはない――というのが基本的な考え方だから、人生はなるべく自分でコントロールできることが望ましい。
ではどうしたら自分で自分をコントロールできるようになるかといえば、選択肢を多く持つことである。現在の会社勤めしか収入源がなければ、嫌な上司、嫌な客でも我慢しなければならない。でも他の選択肢があれば、嫌な話は断ることができる。他人に「都合よく」使われてしまわないために、常に他の選択肢を確保しておくのが中国人の生き方の基本である。そういう考え方からすれば、「Uber」や「Airbnb」、そしてこの「隣趣」で獲得できるような、いつでも好きな時にできて、やりたくない時はやらないで済む収入源というのは、極めて都合が良い。
加えて、自分の収入の多寡を決めるのはお客の評価であって、上司との関係やエライヒトとのコネではない――というところも大きな要因である。日本の読者の皆さんは、中国はコネの国というイメージが強いと思う。それは確かにそうなのだが、逆にそうであるだけに、物のわかった中国人たちはコネの理不尽さ、コネの怖さをよく知っている。人間関係があるおかげで助かることもあるが、逆にコネのせいで実力を発揮できないこともあるし、足を引っ張られてひどい目に遭うこともある。その点、お客の評価で収入が決まる仕組みなら、厳しいけれども安心である。実力のある人にとっては、お客の評価が一番確実である。まっとうな中国人はそう思っている。
今後、社会におけるIT化、デジタル化は劇的に進み、一人ひとりの個人が、自分の得意技を活かしつつ、時間や空間の壁を超え、協力しあって仕事を進めていく時代に、世界中がなっていくだろう。そういう時代に、「個」を核にした中国社会の生き方は親和性が強く、変化に対する適応力が高い。IT化、デジタル化は中国人の生き方に強力な追い風になるだろう。政治的には社会主義などと言いながら、実際には個人が個人として働きやすい環境は、実は中国社会のほうが日本を超える速度で整いつつあるように見える。
Uberで、個人オーナーの高級車で世間話をしながら移動し、個人商店の集合体みたいなタオバオで、この間までOLだったという店主とチャットでやりとりしながら買い物し、「隣趣」で自立した配達人のお兄さんに、昼ごはんを届けてもらう。こういう社会は意外と居心地が良いものである。(2015年11月27日掲載)
2015年12月03日TK
2014年は鄧小平生誕110年の節目だった(写真 : ロイター/アフロ)
中国の近代化は、日本と違った経過をたどっている。第一に、スタートまでにとても時間がかかった。第二に、それを中国共産党が主導した。第三に、欧米の近代化と異なる独自の道をあえて進んでいる。その現状を理解し将来を予測することなしに、グローバル世界の今後を考えることなど、できない相談だろう。
その中国を、解くカギは儒教にある。儒教は、中国の社会構造を規定し、中国を生きる人びとの意識を規定している。何千年もの時間をかけて、中国文明の深いところまで儒教は根を下ろした。ゆえに、西欧文明のほうがよさそうだと思っても、日本人のようにすぐ飛びつくことはできなかった。
儒教を解体して、中国を近代化のレールに乗せる。その大転換を果たしたのが、毛沢東である。毛沢東は、中国革命を象徴する人物だ。中国共産党を率い、旧体制を攻撃し、抗日戦争を戦い、国民党を打ち倒し、共産党の幹部にも繰り返し牙をむいた。彼の「革命的ロマン主義」は、しばしば現実から遊離し、中国にとって危険でさえあった。
儒教を解体するためには、それに代わる思想が、外から来る必要があった。それがマルクス主義である。マルクス主義は革命のための、普遍思想である。毛沢東はそれを、中国化した。毛沢東は中ソ論争を通じて、マルクス主義の解釈権を握った。中国共産党は、普遍思想の担い手から、ナショナリズムの担い手に変わった。
だから中国共産党は、ソ連の脅威を前に、アメリカと手を結ぶことができた。アメリカは新しい外である。その反面、ナショナリズムは土着の伝統への回帰を意味する。毛沢東は皇帝のように、中国を外の脅威から守り、人びとはこれまで通り中国人でよいと保障した。儒教がかたちを変えて存続することとなった。
後世の歴史家が、20世紀半ばからの新中国の歩みをふり返り、もっとも大きな貢献をした人物を一人だけ選ぶとすれば、それは毛沢東でなく鄧小平であろうと、エズラ・F・ヴォーゲル教授は語る。毛沢東の死後、権力の空白を埋め、外国との良好な関係を築き、中国を経済超大国へと導いたのは、鄧小平だった。世界史の奇蹟と言ってもよい出来事だ。
ゆえにヴォーゲル教授が、鄧小平をあらゆる角度から解明する、世界で初めての本格的な研究書 Deng Xiaoping and the Transformation of China (2011)【以下、『鄧小平』(本編)と略称】を著したのも、当然であろう。貴重な歴史の証言であり、グローバル世界を読み解くための基本書でもある。
1999年から翌年にかけて、私は客員研究員としてハーバード大学で過ごし、エズラ・ヴォーゲル教授の知遇をえた。ヴォーゲル教授はちょうど70歳で退職の年にあたり、これから鄧小平についての本を書くつもりだ、と楽しそうに話していた。それは楽しみですね。ヴォーゲル先生しか書けないと思いますよ。そして10年あまり、待ちに待った大作が書店に並ぶと、たちまちこの分野では異例のベストセラーとなった。中国語にも翻訳されて、大陸、香港、台湾の版を合わせると100万部を越えている。
ヴォーゲル教授の仕事が画期的な点は、いくつもある。第一に、信頼できるデータにもとづいた、包括的な研究であること。鄧小平のような近過去の指導者は、公開されない情報も多い。
『鄧小平』エズラ・F・ヴォーゲル 聞き手・橋爪大三郎中国研究で名高いアメリカの社会学者が、橋爪大三郎氏に語った鄧小平像。現代中国を理解するために必読の一冊
ヴォーゲル教授は、公開された文献情報をしらみつぶしにするのはもちろん、それを補うべく、可能な限り多くの関係者(家族や元部下、共産党の幹部、外国の政府首脳など、鄧小平を直接に知る人びと)をインタヴューして、裏付けをとった。特に中国の人びととは通訳なしに、中国語で話しあっている。
第二に、膨大なデータをまとめるのに、社会学の理論を下敷きにしていること。ヴォーゲル先生の分析はパーソンズ(著名な社会学者で、ヴォーゲル教授の指導教員だった)を思わせますね、と私がコメントすると、わかりますか、彼の理論は役に立つんです、と種明かしをしてくれた。
『鄧小平』(本編)は、禁欲的な本で、疑いのない歴史事実だけを書いている。その背後にある動機や意図は、暗示されるだけで、読者の推論に委ねられている。まるで推理小説ですね。現場に被害者が倒れている。血のついた凶器が転がっている。犯人はあの男らしい。でも、動機があるか。アリバイはあるか。証拠は十分か。それはみんなで考えて下さい、ですね。ヴォーゲル先生の答えは、そこを意図して書きました。なるほど、この本には読み方がある。舞台裏を知っているプロなら、2倍楽しめる本なのだ。
ここ5年ほど、嫌中感情がひときわ高まっている。だが、中国を毛嫌いするひとほど、中国のことを知らない。これが私の観察だ。こんなときだからこそ、嫌中派はもちろん、なるべく多くの日本の人びとにヴォーゲル教授の『鄧小平』(本編)を読んでもらいたいと思う。現代中国の本質を理解するのに、これほどふさわしい本はないだろう。
けれども、日本語訳の『現代中国の父 鄧小平』(日本経済新聞出版社・2013年)は上下二巻で、1200ページもある。専門でないビジネスマンや学生諸君、一般読者に十分理解できるように書かれているが、値段と厚さのせいで、どうも手が伸びにくい。うまい工夫はないものか。そうだ、そのエッセンスを紹介する、ポピュラーバージョンを出すのがよい。私がヴォーゲル教授をインタヴューして、新書にまとめよう。
こう、ヴォーゲル先生に提案すると、それはよい考えだ、と賛成してくれた。そこでさっそく準備にかかり、じっくり練り上げて、今回刊行されたのが、『鄧小平』(講談社現代新書)である。
この新書では、鄧小平という人物の本質を、ヴォーゲル先生のユーモアあふれる語り口を通じて、ひき出すことを心がけた。『鄧小平』(本編)では証拠がないからと、はっきり断定しないで残してあった微妙な事情にも、一歩踏み込んだコメントを加えている。
フランスに留学した若い日から、革命に身を捧げた艱難の日々、新中国成立以降の活躍と失脚、復活を果たしたあとの改革開放の推進。林彪とのライバル関係。毛沢東への忠誠と反骨。天安門事件の流血に至る経緯と事後処理。新書だからすぐ読める厚さであるが、鄧小平という指導者の、そして近代中国の苦難の歩みを、見通しよく理解できるはずだ。
ヴォーゲル教授はいまも毎年、何回も中国に調査旅行に出かけ、ハーバード大学では中国研究センターの連続講演会を主宰するなど多忙な毎日を過ごしている。新たに、日中関係の歴史をテーマにする著書を準備中だとも聞く。最近の波乱含みの日中関係を憂慮するヴォーゲル教授ならではの、提言が盛り込まれるはずだ。これも楽しみである。
『鄧小平』(新書)のもとになるインタヴューは2014年秋、数回に分けて日本語で行なわれた。それを私が原稿にまとめ、ヴォーゲル教授が目を通して最終原稿が完成した。日本語版の訳者のひとりである益尾知佐子氏(九州大学准教授)が新書の原稿に目を通し、いくつもの誤りを指摘してくださったのは幸いなことだった。お礼を申しあげたい。
エズラ・ヴォーゲル教授は、日本と中国の社会に通暁し、深い洞察力をもってみのり豊かな研究を続けている、世界の宝である。貴重な時間を割いて、インタヴューに応じてくださったことに、日本の読者を代表して、感謝したい。またこれを機会に『鄧小平』(本編)、とくにその日本語版がさらに多くの読者に迎えられ、古典として末永く読み継がれていくことを期待したい。(講談社『本』12月号より)
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米国の量的緩和は金融危機への対策でした。ユーロも同じです。しかし日本の量的緩和は脱デフレ、つまりインフレ目標(2年で2%)の達成を目的としました。金融危機に効き、リフレと経済成長にも効く量的緩和(※1)は、万能薬と見られているのかもしれません。しかし実際には、量的緩和は万能薬ではありません。
リフレ派の理論的支柱でノーベル経済学者のポール・クルーグマン氏は10月20日、NYタイムズ紙のサイト上に持つ自身のブログで『Rethinking Japan』と題したコラムを発表しました。
今回はこのコラムを翻訳しながら考えていきます。結論を言うと「日本の量的緩和策、リフレ策は失敗した」ということが読み取れます。(『ビジネス知識源プレミアム』吉田繁治)
17年前の1998年、リフレ策を日本に最初に勧めたのはクルーグマンでした。当時の日本は、資産(不動産と株)バブルが崩壊した後の金融危機にありました。
インターネットで、気鋭のエコノミスト・クルーグマンの『流動性の罠』と題した論文を見つけ、メールマガジンで紹介したことを覚えています。日本は「日銀がマネー増発策をとることになる」という主旨の紹介でした。
当時翻訳はありませんでしたが、現在は、山形浩生氏が2001年に翻訳したものが公開されています。
※復活だぁっ!日本の不況と流動性トラップの逆襲[PDF]
残念なことに、日本の経済学は、米国の経済学者が書いたものの“翻訳”です。物理学、化学、生理学・医学、文学の分野では24人がノーベル賞を受賞していますが、経済学では1人も出ていません。
このクルーグマンの『流動性の罠』論を、内閣府参官房参与(2012年12月~現在)に就任した浜田宏一氏が安倍首相に分かりやすく説明して紹介したのです。安倍首相は、これを「円を増刷すれば経済は成長する」と理解しました。
簡単に言うと、「日銀が国債を大量に買ってマネーを増発すれば、それが需要の増加を生んで、デフレからは脱却でき、経済は成長に向かう」というものです。
多数派の支持を得て政権に就いた安倍首相は、この論を政策として採用し、量的緩和は効果がないとして消極的だった白川方明氏に変えて、浜田氏が推薦していた黒田東彦氏(総裁)と岩田規久男氏(副総裁)を日銀に送り込みました。
この黒田・岩田体制で始まったのが2013年4月からの「異次元緩和」です。「2年をめどに、マネータリー・ベースを2倍にし、消費者物価を2%上げる」というリフレ策でした。黒田総裁が、「2年、2倍、2%」と書いたフリップを持って、記者に馴染みのなかったマネタリー・ベース(ベース・マネーとも言う)について説明しました。
マネタリー・ベースは、現金紙幣と、銀行・証券・政府が日銀にもつ日銀当座預金の金額を言います。日銀が債券市場で国債を買ったとき代金を振り込む口座が、この日銀当座預金です。本稿ではマネタリー・ベースを増やすことをマネーの増発と言っています。
2015年11月4日時点では、現金紙幣が92.6兆円、当座預金が247.2兆円であり、マネタリー・ベースは339.8兆円にも増えています。買い上げた国債が317.7兆円で、貸付金が35.3兆円です。日銀はすでに、国債・地方債の総発行額(1022兆円:15年6月末)の31%も買い切っています。
異次元緩和開始前のマネタリー・ベースは、現金紙幣83.4兆円、当座預金58.1兆円で、141.5兆円でした。2年7ヶ月で198.3兆円のマネーが増発されています。マネタリー・ベースは2倍を超えて、2.4倍です。
※営業毎旬報告(平成27年10月31日現在) – 日本銀行
ところが、政府・日銀が異次元緩和の目標としていた消費者物価指数(CPI)は、価格変動が激しい食品と、原油下落の影響が大きいエネルギーを除くコアコアCPIですら、6月0.6%、7月0.6%、8月0.8%、9月0.9%の上昇に過ぎません。
※消費者物価指数
全国 平成27年(2015年)9月分(2015年10月30日公表) – 総務省統計局
岩田副総裁は、就任時の記者会見で、「2年で2%の物価上昇を果たせないときは責任をとって辞任する」とまではっきりと言い切っていましたが、2年経った2015年4月の記者会見でそのことを質問されると、「言葉が足りなかった」としどろもどろの言い訳をしています。この人物は、武士のような潔さとは無縁の人格です。
リフレ派の理論的支柱はクルーグマンだったと言えます。浜田氏や岩田氏の著作を読んでも、その内容は、クルーグマンが1998年に書いた『流動性の罠』で提唱されたマネー増発論の引き写しに過ぎないものでした。浜田氏は「これが国際標準の現代経済学です」とも言っていましたから、量的緩和の効果に関する是非は経済学論争でもあったのです。
そのクルーグマン氏は10月20日、NYタイムズ紙のサイト上に持つ自身のブログで『Rethinking Japan』と題したコラムを発表しました。
流動性の罠と量的緩和は、マネー、金融、経済がからみ、相当に難しい経済理論ですが、今回はこの『Rethinking Japan』を翻訳しながら考えていきます。結論を言うと「日本の量的緩和策、リフレ策は失敗した」ということが読み取れます。
以下の本文では、意訳を加えつつ翻訳し、難しい概念には例を交えて解説します。当方の翻訳に間違いがあるかもしれませんので、クルーグマンによる原文も引用します。
It’s a bit self-centered, but I find it useful to approach this subject by asking how I would change what I said in my 1998 paper on the liquidity trap. Hey, it was one of my best papers; and it has held up pretty well in many respects. But Japan and the world look different now, and trying to pin down that difference may help clarify matters.(1)
少し自己中心的に見えるかもしれないが、私が1998年の『流動性の罠』で言ったことから、考えがどう変化したかを述べるのは有益だろう。あれは私が書いたもののうち、ベストな論文のひとつだった。多くの点で、相当有効なものだった。しかし現在、日本と世界の経済は変化した。その変化を究明することは、われわれが直面している諸問題を明確にするのに役立つだろう。<翻訳(1)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
17年間で経済の状況が変わった。状況が変わったから、『流動性の罠』論に不適なところも出てきたと言うための準備部分です。
It seems to me that there are two crucial differences between then and now. First, the immediate economic problem is no longer one of boosting a depressed economy, but instead one of weaning the economy off fiscal support. Second, the problem confronting monetary policy is harder than it seemed, because demand weakness looks like an essentially permanent condition.(2)
当時と現在では、違いは決定的であるように見える。第一に、2015年の直下の経済問題は、もはや、不況化した経済を持ち上げることではなく、財政の支援から脱却することだからだ。二番目に、量的緩和の効果が出ないという問題は、想定していたことより大きいことだった。その原因は、日本の需要の弱さは本質に根ざすため、永続的な経済の条件に思えるからである。<翻訳(2)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
量的緩和が、目的とした効果、つまり2年で2%の物価上昇を招かなかった理由は、日本経済の本質に根ざすようになってきた需要の弱さによるのではないかという、クルーグマンの見解です。
量的緩和は、それなりに需要を増やす効果は上げたが、日本経済の需要が弱くなっているため、物価を上げるところまでは行かなかったということです。経済学で言う「日本経済の需要」とは、日常用語における「商品需要」と「投資」を含むものです。
需要=GDP=世帯消費+住宅建設+企業の設備投資+在庫増+政府消費+公共投資+輸出-輸入、です。
この需要の合計が小さいとき、商品供給力が超過して、経済は不況になります。具体的に言うと、世帯消費が増えないと企業の商品生産力に余剰が出て、不況化します。
10億円は売ることができる店舗があるのに9億円しか売れないという事態、100億円の生産能力があるのに、売れないため85億円しか生産できないという状況が需要不足です。輸出は外需と言われます。
クルーグマンは1998年と比べて、日本における2012年からの需要つまりGDPの弱さは「本質に根ざすため、永続的な経済の条件」に見えるとしています。ここが、今回のクルーグマンの論でもっとも肝心な点です。
※1 金融危機に効き、リフレと経済成長にも効く量的緩和
わが国では「量的・質的緩和」と言っています。量的緩和は、物価を上げることを目的に国債を買って、マネタリー・ベースを必要な準備預金をはるかに超過する異常な額にまで増やすことです。質的緩和は、円安を誘導して政府の管理するマネーでETFや株式を買って価格を上げることです。
The weaning issue :
Back in 1998 Japan was in the midst of its lost decade: while it hadn’t suffered a severe slump, it had stagnated long enough that there was good reason to believe that it was operating far below
potential output.(3)
何から脱却するのか:
1998年にさかのぼると、当時の日本は失われた10年のただ中だった。厳しい不況ではないにせよ、潜在生産力のはるか下の状態と思える停滞した動きでしかなかった。<翻訳(3)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
経済の「潜在生産力」は重要な概念です。これは、雇用が完全で、企業の設備が100%稼働した状態のときの商品供給力を言います。1998年の日本は、この「潜在生産力」は高かったのに、バブル崩壊後の金融危機によって実際の需要が大きく減っていました。
クルーグマンが『流動性の罠』論を書いた1998年に、日本では金融危機が起こっていたのです。リーマン危機よりはひどくなかった。それでも、金融機関には200兆円の不良債権が発生していました。
This is, however, no longer the case. Japan has grown slowly for the past quarter century, but a lot of that is demography. Output per working-age adult has grown faster than in the United States since around 2000, and at this point the 25-year growth rates look similar (and Japan has done better than Europe): (4)
しかし、現在は事態が異なっている。日本の過去4半世紀は、人口問題を除けば、緩やかだが成長していたからだ。労働人口1人当たりの生産高の増加を見ると、ほぼ2000年ころからは米国より高く、過去25年を見ても米国とほぼ変わらない。(日本は欧州よりいい)<翻訳(4)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
過去25年とは、1990年のバブル崩壊から今年2015年までです。この間、日本経済は、生産年齢人口の減少から来る問題以外では、ゆるやかな成長をしていたとクルーグマンは言います。
「労働人口1人当たりの生産高の増加を見ると、ほぼ2000年ころからは米国より高く、過去25年を見ても米国とほぼ変わらない。(日本は欧州よりはいい)」からです。これは事実です。
つまり、
のです。
GDP=1人当たりGDP×生産年齢人口(15歳~64歳)×就業率(約78%)です。
働く現役世代である生産年齢人口は、わが国の場合、世界でもっとも早く、1998年の8726万人を頂点にして減少しています。2015年は7682万人です。17年間で1044万人(12%)も減っています。就業率の78%には大きな変化はないので、生産年齢人口の減少率が働く人の減り方を示します。1年平均で61万人(0.7%)減ってきたのです。
※生産年齢人口が32年ぶりに8000万人を下回る[PDF] – 総務省統計局
直近2015年から2020年の間に、生産年齢人口は7682万人から7341万人へと、341万人の減少となります。やはり1年に「341万人÷5年=68万人(0.9%)」の割合で減っていきます。
これは、1人当たりGDPで年率2%という、21世紀としては高い成長をしても、GDPの成長は1%にしかならないことを示します。
日本は、1990年から2015年まで、1人当たりGDPでは米国よりも早く成長していた。当然、欧州よりも良かった。しかし、ドイツ、英国、イタリアにも先駆けた生産年齢人口の減少により、全体のGDPは低くなっていたとクルーグマンは言っています。
You can even make a pretty good case that Japan is closer to potential output than we are. So if Japan isn’t deeply depressed at this point, why is low inflation/deflation a problem?(5)
日本は、米国よりも潜在成長力に近いケースと見ることは、極めて妥当なことだ。現在、日本がひどい不況でないとすれば、なぜインフレ率の低さ(あるいはデフレ)が問題になるのか。<翻訳(5)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
経済の実力である潜在成長力とほぼ同じGDPが実現されているときは、不況ではありません。不況とは、生産力の実力が、需要の少なさにより発揮されていないときです。需要が少ないときは、ケインズ的な有効需要を増やせばいい。これが、日本が1990年以降とっている、年間35~40兆円の財政拡張政策です。金融面では、赤字を補う国債の発行になります。
ところが日本は、生産年齢人口の減少で低くはなっているが、潜在成長力に近いGDPは実現している。
内閣府の試算では、潜在成長力は1年0.6%です(2014年)。日銀の推計では、2014年10月でのもっとも新しい潜在成長力は0.2%と、内閣府より低い。以上が意味するのは、日本経済は実質で1年に1%成長すれば、潜在成長力を超える好況であるということです。
これは、個人の平均所得の成長で、物価上昇をマイナスした実質で1%の上昇に相当します。
では、なぜインフレ率の低さが問題だと言われるか?
The answer, I would suggest, is largely fiscal. Japan’s relatively healthy output and employment levels depend on continuing fiscal support. Japan is still, after all these years, running large budget deficits, which in a slow-growth economy means an ever-rising debt/GDP ratio: (6)
答えは、財政的なものだと推測する。日本の比較的に良好なGDPと雇用水準は、財政からの継続的な支援によるものだ。日本は、近年はずっと、結局は大きな財政赤字(※年間35~40兆円)を出し続けている。その財政赤字は、低い成長率の経済が、GDPに対する政府の債務比率を恒常的に上昇させていることを意味するからである。<翻訳(6)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
日本経済は、経済の実力に近い実質GDPの成長率を続けている。そのことが問題になる理由は、毎年の財政赤字が大きいことだ。GDPに対する政府債務の比率(2015年現在は240%)がどんどん拡大すると、財政危機を迎えるからである、と言っています。
クルーグマンが示した2014年のGDPに対する基礎的財政収支(プイマリーバランス)の赤字は、日本が6%、米国が2%。欧州は1%のプラスです。
つまり、日本は毎年の基礎的財政赤字のGDPに対する比率が6%と大きいため、低いGDP成長では「好況」であっても足りない。物価上昇を含む名目GDPの成長が6%以下の場合、GDPに対する債務比率は、どんどん膨らんでいくからです。
So far this hasn’t caused any problems, and Japan has clearly been much better off than it would have been if it tried to balance its budget. But even those of us who believe that the risks of deficits have been wildly exaggerated would like to see the debt ratio stabilized and brought down at some point.(7)
今のところ、この財政赤字の大きさは何ら問題を引き起こしてはいない。日本は、均衡財政をとったときより、はるかにいい経済状態にあることははっきりしている。しかし、財政赤字の危機は大げさに言われ過ぎていると思っている我々ですら、債務比率が安定するか下がって、ある地点に落ち着くことを望みたい。<翻訳(7)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
GDPに対する政府債務比率が、現在の240%を超えて高まると、財政危機に向かうからです。現在の傾向では、これは毎年6%くらいずつ増えていきます(2015年240%→2016年246%→2017年252%……2020年270%……2030年300%)。
And here’s the thing: under current conditions, with policy rates stuck at zero, Japan has no ability to
offset the effects of fiscal retrenchment with monetary expansion.
The big reason to raise inflation, then, is to make it possible to cut real interest rates further than is possible at low or negative inflation, allowing monetary policy to take over from fiscal
policy.(8)
政策金利がゼロにはりついている現在の状況では、日本は、財政緊縮で経済が縮小する結果を、マネーの拡張で相殺はできない。インフレにもって行くべき大きな理由は、低いインフレあるいはマイナスのインフレのときより、実質金利を下げることが可能になるからである。実質金利がマイナスに下がれば、財政政策に変わる、金融の拡張政策が可能になる。<翻訳(8)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
「政策金利がゼロにはりついている現在の状況では、日本は、財政緊縮で経済が縮小する結果を、マネーの拡張政策で相殺はできない」は、若干理解が難しい部分です。
クルーグマンは、短期金利がゼロのときは(=現在の日本は)、日銀が量的緩和によりマネタリー・ベースを増発しても、それが、企業や世帯によって使われることにはならないということを書いています。これも、確かにその通りです。
日本にインフレが必要な理由は、インフレ率が高くなると、実質金利がマイナスになるからだと言うのが、クルーグマンの『流動性の罠』の治療法です。
リフレ派は、「物価を上げることで、実質金利をマイナスにする」ことを、金融政策の目的にしています。
名目金利は、われわれの預金や借り入れの金利です。これは0%が下限です。政府・日銀が、銀行預金の金利をマイナス2%にすれば、預金者は皆、預金を引き出してタンス預金に変えます。これでは全銀行が破産するからです。
ゼロ金利になると、金融政策は無効になります。ゼロ金利のときは、現金需要が無限大に向かって発散し使われず退蔵されることを、ケインズは流動性の罠と名付けたのです。
流動性の罠から脱するには、経済をインフレにもって行き、実質金利をマイナスにすることです。「実質金利=名目金利-予想物価上昇率」です。
例えば、住宅価格がインフレのため、年率で4%は上がると人々が予想する場合です。ローン金利を30年固定で1.5%とします。この場合のローンの実質金利は、「名目金利1.5%-住宅価格の予想上昇率4%=実質金利マイナス2.5%」です。
4%のインフレとは、10年後の住宅価格では「1.04の10乗=1.48倍」が予想される状態です。現在3000万円で買える住宅が、4440万円へと1440万円も上がることが予想されます。こうなると、1.5%の金利を負担し、新しい住宅に買い替える人も増えるでしょう。
このように、将来物価に対する人々の予想を上げて、実質金利をマイナスにし、需要と設備投資を増やすのがリフレ策です。
実質金利がマイナスになれば、GDPに対する政府の債務比率を増やし続ける財政拡張策の代わりに、金融策をとることができるとクルーグマンは言います。財政の赤字を少なくし、政府が財政支出を減らしても、民需の増加(世帯と企業の需要増加)で、財政支出の減少を補うことができるからです。
需要の増加による予想インフレ率が4%になれば(クルーグマンの主張は4%です)、企業もインフレで売上が増えると予想し、生産力、販売力を大きくするための設備投資を増やすからです。例えば、地域の消費需要が物価上昇により金額で4%も増えると小売業が予想すれば、出店ラッシュが起こります。
I’d also add a secondary consideration: the fact that real interest rates are in effect being kept too high by insufficient inflation at the zero lower bound also means that debt dynamics for any given budget deficit are worse than they should be. So raising inflation would both make it possible to do fiscal adjustment and reduce the size of the adjustment needed.(9)
もうひとつ付け加える。ゼロ金利限界の中の不十分なインフレのため、実質金利が高止まりしている事実が意味していることは、所与の財政赤字に対する債務ダイナミクスが、あるべき水準より悪いことである。インフレ率を上げれば、財政赤字比率に適合し、調整の規模も縮減することができる。<翻訳(9)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
債務ダイナミクスとは、名目経済成長率が金利を上回ると、政府のGDPに対する債務比率は下がっていくことを言います。物価上昇を含む名目GDPの成長が6%と高くなれば分母の名目GDPが大きくなるため、政府の債務比率はGDP比240%が、238%、236%と下がっていき、懸念されている財政危機は雲散霧消します。
ところが日本は、予想インフレ率(=期待インフレ率)が0%近くと低い。名目金利が短期金利で0%、長期でも1%未満と低くても、実質金利は高い。実質金利が高いと、設備投資や住宅購入のための借入れが増えず、GDPの成長は低いものになります。
GDPの成長率が低いと、毎年30兆円以上(GDP比6%以上)の財政赤字があるため、政府の債務比率は大きくなり続けるのです。
But what would it take to raise inflation?
Secular stagnation and self-fulfilling prophecies
Back in 1998, when I tried to think through the logic of the liquidity trap, I used a strategic simplification: I envisaged an economy in which the current level of the Wicksellian natural rate of interest was negative, but that rate would return to a normal, positive level at some future date. (10)
インフレのためには何を行うべきか
長期停滞と自己達成的な予言
1998年にさかのぼって言えば、私は流動性の罠の論理を通じて考えようとして、戦略的に単純化した。つまり、当時の自然金利をマイナスとし、それは将来のいつか正常なプラス金利に戻ると予想していた。翻訳<(10)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
聞きなれない「Wicksellianの自然金利」とは、インフレもデフレも起こさないレベルの金利です。その国のGDPの潜在成長率に近い値になります。
クルーグマンは、ここで当時の日本経済への認識を言っています。
2つ目がクルーグマンの間違いでした。そしてこの、日本経済の潜在成長力はプラスであるという1998年当時の認識から、量的緩和の政策を導いたと述懐しています。ここが肝心な点です。
This assumption provided a neat way to deal with the intuition that increasing the money supply must eventually raise prices by the same proportional amount; it was easy to show that this proposition applied only if the money increase was perceived as permanent, so that the liquidity trap became an expectations problem.(11)
日本経済の潜在成長力がプラスなら、マネー・サプライを増やせば、物価はその増加割合に応じて上がるという直観を与えてくれた。マネーの増加が永久的と受け取られるときのみ、これが成立することを説明することは容易である。このため、流動性の罠は、人々の、将来への予想(期待)の問題になる。<翻訳(11)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
潜在成長力とは、完全雇用と、設備稼働が100%のときの経済成長力です。完全雇用とは、日本では、職業の移動期間の失業である3%の失業率です。これを自然失業率と言います。12年勤務で4ヶ月くらいは職業移動のための失業があるのが平均的でしょう。日本人は平均で言うと生涯に3回会社を変わります(2015年4月の我が国の失業率は3.3%です:総務省)。
不況とは、潜在成長率に達していないことであり、失業率が自然失業率より高いときです。しかし、1998年の失業率は3.5%であり高くはなかったのです。
2015年の失業率も、完全雇用に近い3.3%です。完全雇用のときのGDP成長が潜在成長率です。ところが、2015年11月の実質経済成長は0~0.6%程度でしかない。
クルーグマンが、将来は高くなると見ていた日本の潜在成長力は、実は、低いものだったのです。
このため、日銀が国債を買ってマネタリー・ベースを増やしても、企業と世帯が新たに借り入れることによって増えるマネー・サプライの増加にはならなかった。
つまり量的緩和は、デマンド・プル型の需要増加によるインフレを引き起こすことはできませんでした。(注)デマンド・プル型のインフレは、需要増>供給力により物価が上がること。
マネタリー・ベースは、異次元緩和前の2.4倍の、339.8兆円に増えています。ところが、企業と世帯の預金が主であり、実体経済で使われるマネー・ストックは前年比で2.9%しか増えず、1227兆円(M3:2015年10月)です。
※マネーストック速報(2015年10月)[PDF] – 日本銀行
2%台のマネー・ストックの増加は、異次元緩和前と同じです。日銀が198.5兆円兆を増発した異次元緩和は、マネー・ストックの増加としては何ら効果を上げていません。
このマネー・ストックの増加が4%以上でないと、日本では、デマンド・プル型のインフレにはならない(岩田規久男氏自身が書いた『デフレの経済学』)のです。
The approach also suggested that monetary policy would be effective if it had the right kind of credibility – that if the central bank could “credibly promise to be irresponsible,” it could gain traction even in a liquidity trap.(12)
これは、金融政策は正しい信頼をもたれるとき、有効になることも示唆している。中央銀行が、信用をもって無責任であると約束できるなら、流動性の罠の中でも、牽引力を獲得できるだろう。<翻訳(12)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
credibly promise to be irresponsible(信用をもって無責任)とは、クルーグマン特有の難しい表現です。具体的には、「インフレになった後も、量的緩和を続けるのが日銀だ」と国民から予想されることを言います。
もっと具体的には、黒田総裁は、インフレ目標2%が達成されたあとも、量的緩和を続けると予想されることを指します。
クルーグマンは、量的緩和が物価上げる効果を生むには、日銀が、通貨の価値を守る番人としては無責任だと思われることが必要と言っています。さらに重要な条件として、日本経済の潜在成長力が数%のプラスでなければなりませんが、実際は、潜在成長力1%以下です(2014年)。
But what is this future period of Wicksellian normality of which we speak? Japan has awesomely unfavorable demographics:(13)
Which makes it a prime candidate for secular stagnation. And bear in mind that rates have been very low for two decades, fiscal deficits have been high that whole period, and at no point has there been a hint of overheating. Japan looks like a country in which a negative Wicksellian rate is a more or less permanent condition.(14)
しかし、Wicksellianが言った潜在GDPの成長率と一致する金利は、いつ来るのか。日本は人口の生産年齢人口の面から、経済成長が低くなる、ひどく好ましくない人口構造をもっている。<翻訳(13)>
日本の永続的な停滞にとって、どちらが早く来るか。大きな財政赤字がずっと続く中で、20年も超低金利だったことを考えると、資金需要の過熱の時期は来そうもない。日本は、多かれ少なかれ、マイナスの自然金利が永久に続くように見える。<翻訳(14)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
ここも、クルーグマンのリフレ論のポイントです。日本経済のGDPの潜在成長力が、生産年齢人口の減少のためマイナスなら、日本の自然金利もマイナスになります。自然金利がマイナスなら、インフレで実質金利を例えば2%のマイナスにできても、効果は上がりません。
実質金利=名目金利0%-予想インフレ率2%=マイナス2%
自然金利がマイナス2%なら、実質金利のマイナス2%は、資金需要を増やす効果がない。住宅価格が2%下がる予想されているとき、ローン金利が仮にマイナス2%でも、住宅需要を増加させる効果はない。
「日本は、多かれ少なかれ、マイナスの自然金利が永久に続くように見える」(クルーグマン)恐らくこれです、住宅ローン金利が1%を割っても、事実、住宅需要は増えていません。1980年代は、ローン金利は7%と高くても、住宅購入は増加していました。住宅価格は、年率10%は上がると予想されていたからです。実質金利は、「名目金利7%-住宅価格の予想上昇率10%=マイナス3%」でした。
If that’s the reality, even a credible promise to be irresponsible might do nothing: if nobody believes that inflation will rise, it won’t. The only way to be at all sure of raising inflation is to accompany a changed monetary regime with a burst of fiscal stimulus.(15)
マイナスの自然金利の継続が実際のことなら、日銀が無責任になるという約束が信頼されても、何も起こらない。インフレになると思う人がいなければ、インフレは起こらないからだ。このとき、確実にインフレを起こす唯一の方法は、金融政策のレジームを、爆発的な財政刺激に変えることである。<翻訳(15)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
クルーグマンの変節は、ここです。
日本は、マイナスの自然金利になっていた。このため、日銀が量的緩和の継続で無責任になるという約束が信頼されても、何も起こらない。
「インフレになると思う人がいなければ、インフレは起こらないからだ」
では、日本は、どうしたらいいのか?
「このとき、確実にインフレを起こす唯一の方法は、金融政策のレジームを、爆発的な財政刺激に変えることである」
例えば、GDP比6%(30兆円)の公共事業を追加することだと言います。財政赤字は、現在の35兆円に30兆円を加えて65兆円になります。新規国債の発行も、65兆円になって倍増しますが、それは全部を日銀が買いとるということです。
しかし実際には、それは絶望的だとクルーグマンは言います。
And this in turn suggests something counterintuitive: while the goal of raising inflation is, in large part, to make space for fiscal consolidation, the first part of that strategy needs to involve fiscal expansion. This isn’t at all a paradox, but it’s unconventional enough that one despairs of turning the argument into policy (a despair reinforced by yesterday’s meeting …)(16)
これは代わりに、直観に反することを示唆する。インフレ率を高めるのは、多くの場合、財政再建の余地をつくることであるのに対して、最初は財政の拡張をしなければならないからである。これはパラドックスということでは毛頭ないが、この議論を政策にすることは絶望的という点で型をはみだすものだろう。(昨日のIMFでの会議でこの絶望感は強くなった)<翻訳(16)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
日本に残された財政拡張策は、財政赤字をますます大きくします。このため、実際的な政策にはなることは絶望的だと、クルーグマンは言っています。IMFの日本経済をテーマにした会議でも、日本に残された財政拡張策は否定されたようですね。
Suppose, bad instincts aside, that we really can go down this road. How high should Japan set its inflation target? The answer is, high enough so that when it does engage in fiscal consolidation it can cut real interest rates far enough to maintain full utilization of capacity. And it’s really, really hard to believe that 2 percent inflation would be high enough.(17)
財政拡張は、政策的に無理だという直感はさておき、この道をとったとして仮定してみよう。日本はインフレ目標をどれくらいの高さにすべきか。答えは、財政の再建をせねばならない時期に来たとき、経済のフル活用ができるように、実質金利を低くできるインフレの高さである。このため、2%のインフレ目標では、全くもって不十分である。<翻訳(17)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
クルーグマンは、2%のインフレ目標では、日本が財政危機から脱するのは不可能と言っています。彼の想定は何%か?たぶん4~6%です(別の書籍でこれを書いていました)。
This observation suggests that even in the best case Japan may face a version of the timidity trap. Suppose it convinces the public that it will really achieve 2 percent inflation; then it engages in fiscal consolidation, the economy slumps, and inflation falls well below 2 percent. At that point the whole project unravels – and the damage to credibility makes it much harder to try again.(18)
以上の見解から言えるのは、最良のケースでも、日本は、今度は「臆病の罠」に直面することである。国民に2%のインフレが確実と確信させた場合、財政の再建に取り組まねばならず、経済は不況になって、インフレは2%の相当下のレベルに低下するだろう。その地点に至ると、全体の政策がバラバラになって、政策への信頼は、回復不能なダメージを蒙る。<翻訳(18)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
財政赤字を現在の6%より大きくすることによる、2%を超えるインフレ目標は、日本は政策化できないということです。
それじゃ、結局どうなるのか。ここが、クルーグマンの最後の処方箋です。
What Japan needs (and the rest of us may well be following the same path) is really aggressive policy, using fiscal and monetary policy to boost inflation, and setting the target high enough that it’s sustainable. It needs to hit escape velocity. And while Abenomics has been a favorable surprise, it’s far from clear that it’s aggressive enough to get there.(19)
結論:日本が採らねばならないのは、財政と金融を使いインフレを高める、真に積極的な政策である。インフレ目標を、インフレが維持可能なレベルに高くすることだ。そのためには、重力圏を脱する速度が要る(米国と欧州も日本と同じ道をたどるが)。アベノミクスは好ましい驚きだった。しかしそれが、その速度に至れるかどうか、まるで分からない。<翻訳(19)>
出典:Rethinking Japan – The New York Times
※記事公開時の翻訳「インフレ目標を、財政が維持可能なレベルに高くすることだ」は、「インフレ目標を、インフレが維持可能なレベルに高くすることだ」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。(2015年11月27日 マネーボイス編集部)
重力圏(引力圏)を脱する速度とは、形容詞的表現です。クルーグマンがここで言うのは、財政が維持可能なインフレには、日本は至らないということです。
この意味は、政府財政が維持可能でなくなること、つまり財政危機です。問題はそれが来るのがいつかです。10年債の金利が2.5%に上がった時です。2015年11月現在の10年債の金利は、0.3%付近です。
内閣府の想定では、経済再生ケースの場合、2018年の長期金利が2.7%です。名目GDPが十分に(3%以上)成長して好況だった場合、金利の上昇は早く来ます。この場合、2020年の名目GDPは、現在より94兆円大きな594兆円。これが600兆円シナリオです。
他方、GDP成長成率が低いベースラインケースでは、2021年の長期金利が2.3%、2022年2.4%、2023年2.5%です。経済成長が低いベースラインケースでも、2020年の名目GDPは、現在より52兆円も大きな552兆円です。
(※中長期の経済・財政に関する試算 – 内閣府(2015年7月22日)[PDF] 長期金利はP4~5にあります)
結局、グルーグマンは、
と言っています。
内閣府は、中長期の経済・財政に関する試算で、
(1)経済再生ケースでは、名目経済成長率の今後9年の平均は3.4%(2023年の名目GDPが663兆円)
(2)ベースラインケースでも、2023年の名目GDPは574兆円で、年率平均の成長率は1.8%
としています。
1998年の名目GDPは504兆円でした。17年後のいま2015年は500兆円です。17年間の名目GDP成長は、マイナス4兆円です。人口の減少の問題は、今後、厳しくなります。名目で1.8%の成長も危ういでしょう。それにしても内閣府は、このようなクルーグマンの認識変更と反対に、なぜ2000年代よりはるかに高い名目経済成長を描くのか?
その理由は、財政破綻しないためには、これくらいの名目GDP成長が必要であると、目標から逆算しているからです。
安倍内閣は「移民政策」の是非で閣内不一致?
2015年12月8日(火)NBO 上野 泰也
上野 泰也みずほ証券チーフMエコノミスト会計検査院、富士銀行(現みずほ銀行)、富士証券を経て、2000年10月からみずほ証券チーフマーケットエコノミスト。迅速で的確な経済・マーケットの分析・予測で、市場のプロから高い評価を得ている。
移民政策で割れる安倍内閣
加藤勝信一億総活躍担当相は11月27日に日本記者クラブで記者会見した際、人口減少問題への対応策として移民を受け入れる可能性について、「安倍政権として移民政策取ることは考えていない。その前に努力すべきことはいっぱいある」と述べ、否定的な見解を示した。これより前、11月22日に岡山県井原市で行った講演では、「いま移民政策を取る考えは全く持っていない」と、加藤一億総活躍相はより強い表現で述べていた(共同)。
ある新聞の政治部記者によると、理由はよく分からないものの、安倍晋三首相は移民政策がかなり嫌いなようだという。選挙で不利になるという考えからなのか、それとも何らかの原体験があるのか。
だが、人口を同じ水準で維持するためには、人口置換水準(現在は2.0を小幅上回る水準)の合計特殊出生率が必要である。安倍内閣が「新しい三本の矢」の中で掲げている「希望出生率1.8」では、日本の人口減少を食い止めることはできない。
意見が割れる首相や閣僚
以前に「選択する未来委員会」で示された試算のように毎年20万人ずつ移民を受け入れるといった外国人の計画的・戦略的な受け入れを進めない限り、日本の総人口がこのまま減少を続けて1億人の大台を割り込むことは避けられない。
石破茂地方創生担当相は、安倍内閣の一員ではあるものの、移民政策に関しては首相や加藤一億総活躍相と意見を異にしているようである。
11月24日に講演した中で石破地方創生相は、「人口が減る中、移民を受け入れる政策は進めていくべきだ」と明言。日本から多くの移民が南米などに入植した過去の歴史に触れ、「日本人がやってきたのに、外国人が日本に来るのは駄目だというのはおかしい」とも述べた。
これは、筆者が過去の著書で述べたことと重なり合っている。移民労働者を受け入れると日本人の仕事が奪われるのではないかというような、国民の間にある(実は根拠が薄弱な)不安感との関連では、「外国人だから安い賃金で働くということは、あってはならない。(日本人と)同一労働同一賃金でなければならない」と発言した。
朝日新聞が自民党員を対象に行った調査で、「次の首相にふさわしいのは誰か」を自民党所属の国会議員の中から1人挙げてもらったところ、トップは上記の石破地方創生相(18%)だった。次点が安倍首相(7%)で、定められている総裁任期(3年×2期まで)終了後のさらなる続投を望む声も一定程度あったという。
以下(小数点以下は四捨五入)、小泉進次郎党農林部会長(7%)、谷垣禎一幹事長(5%)、麻生太郎財務相(1%)、野田聖子前総務会長(1%)、菅義偉官房長官(1%)の順で、その他の人を挙げたのが8%。「答えない・分からない」が過半数の52%で、自民党員の中でも「ポスト安倍」の有力候補が定まっていない様子がうかがえると、記事には書かれていた。
安倍首相の任期は延ばすべきか?
なお、現在の党則に沿う場合のリミットである2018年秋を越えて安倍首相の自民党総裁任期を延ばした方がよいかどうかをたずねたところ、「延ばして続けた方がよい」(42%)、「そうは思わない」(46%)と、意見はほぼ真っ二つに分かれた。
この問題は、日銀の「量的・質的金融緩和」がいつまで続けられるかにも密接に関わってくるため、市場関係者も要注視である。筆者は以前より、党則を改正しての2020年夏(東京五輪開催時)までの安倍自民党総裁の任期延長を予想している。
また、安倍内閣の閣僚では石破地方創生相のほかに、河野太郎行政改革担当相が移民政策に前向きな考えを表明している。
11月7日に沖縄県名護市で開催された国際会議で河野行革相は、「外国からの労働力をどうするか、そろそろテーブルの上に載せ、議論を始める覚悟が必要だ」として、名目GDP(国内総生産)600兆円達成のための手段の1つとして移民の受け入れを検討すべきだという考えを表明した。ただし、「この問題は時間もかかるし、感情的になりやすい」と指摘し、十分に議論を尽くすべきとの考えも示した。
これに対し、菅官房長官は11月9日午前の記者会見で、移民受け入れに関し、「諸外国でもさまざまな難しい経験を得ているので、慎重であるべきだ」と発言。「経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目しつつ中長期的な外国人材受け入れのあり方について検討する」という政府の従来からの方針を説明し、慎重に議論を進めていく考えを示した。
安倍内閣のほかの閣僚では、「アベノミクスの司令塔」である甘利明経済財政・再生相が14年4月8日、来日していたグリアOECD(経済協力開発機構)事務総長が「選択的移民政策の導入も考えられるのではないか」と提案したところ、「移民は日本ではナーバスな問題なので、高度人材の活用を考えていく」と返答した。
同年12月19日には、外資系通信社が主催した講演・パネルディスカッション終了後に記者団の質問に応じた中で、移民政策は慎重論が多いという甘利経財相の発言が聞かれた。
国民の意識が変わらなければ…
むろん、日本が移民政策に踏み出すという形で新たな「開国」をするためには、政治の世界で基本方針が変わるための大前提として、日本国民の意識が大きく変わってくることが前提となる(当コラム9月15日配信「人口減に対策なし、日本人は『座して死を待つ?』」ご参照)。
人口減・少子高齢化に見舞われている地方経済の窮状や、飛躍的に増えている海外からの観光客は、そうした日本人の意識変革につながるテコとなる可能性を秘めていると、筆者は考えている。
そうした中で筆者が最近期待して注目しているのは、経済界の今後の動きである。榊原定征日本経団連会長は7月23日、「移民政策については国はきわめて保守的で拒絶的」「移民政策で国のドアを開けることが産業界の仕事」と述べた。筆者もその通りだと思う。
「官民対話」の場で政府から賃金引き上げや設備投資上積みの要請を受けるなど、とかく守勢となる場面が目立つ日本の経済界だが、日本経済の将来をにらんで、移民政策ではもっとオープンに攻勢に出てもいいのではないか。
企業が国内で設備投資を上積みすることにつながる環境整備としては、法人税の実効税率引き下げ前倒しよりも、人口面で日本経済の将来展望を抜本的に変えていくことの方が、はるかに力を発揮するだろう。
2015年12月02日
今年7月の就任会見で抱負を語る八郷隆弘社長。いよいよ改革が動き始めた(撮影:尾形文繁)
ホンダが国内自動車メーカー初となる、定年を65歳にまで延長する方針を明らかにした。企業の雇用に詳しいニッセイ基礎研究所の松浦民恵主任研究員は、「ホンダの定年延長制度導入はインパクトが大きく、他の大企業が検討に乗り出すきっかけになる」と、この動きが今後広がっていくと見る。
具体的には国内の従業員約4万人の定年を60歳から65歳に延長。合わせて、子育てや介護をする社員向けの制度も拡充する。今後、少子高齢化で労働人口が先細りする中、労働条件を大幅に見直すことでより働きやすい会社への転換を目指す。会社と労働組合の間では大筋で合意をしており、労使の協議を経て2016年度中の正式導入を目指す。
ホンダでは、2010年度から60歳の定年退職後も希望すれば65歳まで働き続けられる再雇用制度はあった。再雇用の契約を結んで働き続ける社員は現在5割から6割程度。給料は現役時代の約半分にまで下がり、負担の重い海外駐在をさせないと労使間で定めるなど、活躍の場が限定されていた。
定年を65歳まで延長する新制度下では、給料は現役時代の約8割を保証。海外駐在の道も開く。これから一層の発展が見込まれる新興国の現場では、技術伝承の観点からも経験豊富な人材の需要が高まっており、中国やアジア諸国への派遣を視野に入れる。
ホンダが定年延長に取り組む個別の事情もある。社員の平均年齢は44.8歳。トヨタ自動車の39.1歳や日産自動車の42.7歳など同業他社と比較すると高い。「社員の年齢構成では、40代後半から50代前半がボリュームゾーンになっているため」(ホンダ人事担当)だという。
この世代は、1990年前後に入社したバブル世代だ。彼らの多くが60歳を迎える2025年には、厚生年金の報酬比例部分について支給開始年齢が現在の61歳から65歳に引き上げられる。60歳で退職した場合、65歳で年金をもらうまでは無年金になる。こうした事態を防ぐために、国は2013年に「改正高年齢者雇用安定法」を施行。あらゆる企業は、希望する従業員を全て「65歳」まで雇用しなければならなくなった。
ただ定年延長を行ったり、定年廃止を決めたりした企業は少なく、ホンダを含む大半の企業は再雇用制度を実施しているのが実情だ。給与水準は現役時代の5~6割程度に抑えられている。大企業での定年延長制度の導入は、イオンやサントリー、大和ハウス工業などに限られ、製造業ではなお少数派だ。
前出の松浦民恵主任研究員は、ホンダの改革の方向性を評価したうえで、「高齢者雇用はこれまでは福祉的な側面が強かったが、バブル世代の定年を10年後に控え、大企業も人材戦略としての高齢者雇用に舵を切らざるをえなくなるだろう」と話す。
ホンダの人事担当者も「多様な立場の人が力を発揮してもらうことで会社も発展していきたい」と話し、定年延長は「人材活用」に主眼が置かれていることを強調する。
ホンダは、定年延長制度の導入と合わせて、給料における成果主義の拡大や時間外手当の割増率の削減、国内出張日当の廃止も実施する方針だ。こうすることで、総人件費は現行と同水準に抑える。社員の働きぶりや能力に応じた処遇にウェイトを置くことで、社員の働き方にも変化を促す。
またシニア社員の活用だけでなく、子育てや介護に関連する制度の拡充も進める。在宅勤務制度を新設し、小学4年生までの子どもを持つ社員や要介護者が家族にいる社員が利用できるようにする。
家族手当の見直しにも着手する。これまでは、専業主婦(夫)を含む1人目の扶養家族に対して1万6000円、2人目以降は1人当たり4800円を支給してきたが、これを段階的に廃止し、育児・介護手当を新たに導入。扶養する18歳までの子どもや要介護者に1人当たり2万円を人数に上限を定めず支給する。
「会社の活力をより高めていくためにはどうすべきだろう」と2年以上かけて労働条件の見直しを労使で検討してきたというホンダ。会社の飛躍に新制度を活かすことができるか、注目が集まる。
突如登場した「一億総活躍」のスローガン。あまりの意味不明さに、民間議員の菊池桃子さんは「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」への言い換えを提案しましたが、余計に分かりづらいとの声も。これに関して、作家・評論家の佐藤健志さんは、「ゴマカシのために使われている言葉は、翻訳するとボロを出すことが多い」と言います。政治家が多用する曖昧な日本語は、いちど英語に訳してみると、その本質を見極めやすくなるようです。
言葉は現実を的確に認識するための重要な手段ですが、使い方次第では、現実から目をそむけ、幻想、ないし妄想に自閉するための手段ともなります。
早い話がゴマカシの道具。
「国家歳入の激減」を「民衆の税負担の軽減」と言い換えたり、「壊滅的打撃」を「損害軽微」と言い換えたりするのは、その典型的な例でしょう。
これにならえば、TPPの発効や農協改革が日本の農業に与える影響も、「損害軽微」ですむこと間違いなし。
TPPそのものにしたところで、「主権喪失への巨大なステップ」ではなく、「第2の開国」や「中国に対する経済的包囲網」となります。万事快調、めでたしめでたし!
……冗談はさておき。
都合の悪い現実を言葉で粉飾したがるのは人間の本性ですから、こういった言葉の使い方を完全に阻止することはできません。
ただし予防策がないわけではない。同じことを別の言語で言ったらどうなるか、考えてみることです。
なぜか。
言語は、それぞれ独自の文化を背負っている。そして文化には、それぞれ独自の慣習、ないし約束事があります。「どんな言葉の使い方をしたら、現実から目をそむけられるか」は、この慣習や約束事と密接に関連しているのですよ。
「玉砕」を例に取りましょう。これは「玉砕瓦全」(ぎょくさいがぜん)というフレーズに由来する言葉。「瓦のようにつまらぬ存在として生きながらえるより、宝石のごとく美しい存在として死ぬ」ことを意味します。
明治時代につくられた軍歌「敵は幾万」にも、「瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや」という一節がありました。
そんな予備知識がなくとも、字面からして、何か高貴な滅び方をしたことは想像がつく。だからこそ、「全滅」を美化する表現となり得たのです。
日本語が背負った漢字文化の慣習を駆使して、ミもフタもない現実を粉飾したわけですね。しかるにこのニュアンスを、漢字文化と縁のない英語で表現できるか。
「They fought
honorably to the last man」
(最後の一人にいたるまで気高く戦った)
とすれば、おおまかな意味は伝わるかも知れませんが、長ったらしいうえ、「玉砕」が持つ粉飾効果とは程遠い。「頑張りはしたものの、全滅は全滅だ」という感じなのです。
言い替えれば、ゴマカシのために使われている言葉は、翻訳するとボロを出すことが多い。
かつて東大で教えていたある政治学者など、学生がいい加減な言葉の使い方をするたび、「君、それを英語で言ったらどうなるかね?」とツッコミを入れるのを得意技としていました。
さて。第2ステージ、またはプランBに入ったとされる現政権の経済政策、いわゆるアベノミクスのスローガンとして「一億総活躍(社会)」なるものが出てきています。「一億総活躍担当相」というポストまで新設され、加藤勝信さんが就任したのはご存知のとおり。
しかし一億総活躍とは、具体的にどういうことなのでしょうか?加藤勝信さんはご自分の仕事について、こう語っています。
「『強い経済』『子育て支援』『安心につながる社会保障』。(名目GDP)600兆という目標もある。そういったものを実現していくための政策をまとめ上げていきたい」
しかしそれなら、「アベノミクス達成担当相」で問題はないはず。ここで挙がっているのは、総理が第2ステージのターゲットとして掲げたものばかりなんですから。
事実、地方創生相の石破茂さんは、こう発言しました。
(一億総活躍は)最近になって突如として登場した概念だ。国民の方々には「何のことでございましょうか?」という戸惑いみたいなものが、全くないとは思っていない
出典:1億総活躍相、担当は何? 石破氏「突如登場した概念」 – 朝日新聞(2015/10/10)
石破さんの主張はもっともです。「経済政策の達成」と言えば済むものを、なぜわざわざ「一億総活躍」と呼びたがるのか?
こういう怪しげな言葉については、翻訳してみるのが一番。「一億総活躍担当相」の英語訳は、首相官邸の公式サイトによれば以下のようになっていました(初出時)。
Minister in Charge of Promoting Dynamic Engagement of All Citizens
出典:首相官邸ホームページ(英語版)
(編注:現在は「Minister for Promoting Dynamic Engagement of All Citizens」に変更された)
長ったらしい点は不問として、直訳すれば「全国民の『ダイナミック・エンゲージメント』推進担当相」。では、「ダイナミック・エンゲージメント」とは何を意味するのか。
エンゲージメントには「約束」「婚約」「債務」「雇用」などの語義があります。これらすべてに共通しているのは「責任を伴う関わり」であること。
よって「ダイナミック・エンゲージメント」は、「責任を伴う関わりを、積極的に持つ」ことと解せます。
ならば「一億総活躍相」も、「責任を伴う関わりを、全国民が積極的に持つよう推進する担当大臣」となるものの、いったい何に対して、責任を伴う関わりを積極的に持たせるのか?
加藤大臣の発言を見れば、答えは明らかでしょう。ずばり、アベノミクス第2ステージに対してです。
「一億総活躍」とは、「経済政策の成否をめぐる責任を、政府が負わずに国民に転嫁すること」を意味していたのでした!
やはりゴマカシのために使われている言葉は、翻訳するとボロを出すのですよ。ではでは♪
厚労省が11月9日に発表した9月の実質賃金(速報値)は前年同月比0.5%増で、3ヶ月連続のプラスとなりました。しかし第2次安倍政権発足以降で見てみると実質賃金が5%以上落ち込んでいる事実はあまり大きく報じられません。
これについて作家の三橋貴明さんは、「最終的には実質賃金が上昇するか生産ができなくなるかのどちらかに行き着く」としたうえで、「現在の安倍政権の政策が継続する限り、日本国民の実質賃金は上がらず、日本の発展途上国化は避けられない」との見方を示しました。
9月の実質賃金(速報値)が発表されました。
厚生労働省が9日に発表した9月の毎月勤労統計調査(速報)によると、賃金の伸びから物価の上昇率を差し引いた実質賃金は前年同月比0・5%増と3か月連続でプラスとなった。
実質賃金が増えたのは、基本給などの所定内給与が同0・4%増の24万538円と7か月連続で増加していることが大きい。厚労省は「春闘のベースアップによって所定内給与が堅調で、今後も実質賃金はプラスが続くとみられる」としている。残業手当などを含めた労働者1人当たりの平均賃金を示す「現金給与総額」も、同0・6%増の26万5527円となり3か月連続でアップした。
一方、今年の夏季賞与(ボーナス)は前年比2・8%減の35万6791円にとどまった。<後略>
出典:実質賃金、3か月連続増も…夏のボーナスは減少 – 読売新聞(2015/11/9)
わたくしが重視している「きまって支給する給与」の指数と対前年比を見てみましょう。
日本の実質賃金指数(きまって支給する給与)の推移
3ヶ月連続で対前年比のプラスになったとはいえ、何しろ第2次安倍政権発足以降、実質賃金は5%以上も落ち込んでいるのです。これを取り戻すのは、現状の上昇率では相当に長い時間が必要になります。
それにしても、消費税増税のインパクトはすごいです。2014年4月からの1ヶ月で、実質賃金は3%強も落ちました。すなわち、消費税増税による物価上昇分は全く吸収できなかった、という話でございます。
さらに重要なポイントは、実質賃金を計算する際の物価指数(持ち家の帰属家賃を除く総合)が「下がってきている」という点です。
持ち家の帰属家賃を除く総合消費者物価指数の推移(対前年比%)
グラフの2014年4月の急上昇は、もちろん消費税増税分ですが、その後は勢いをなくし、直近ではわずか0.1%にまで落ちてしまっています。
本来、デフレ脱却とはミクロ面でいえば、「物価が(2%程度で)安定的に推移し、それ以上に名目賃金が上がり、実質賃金が上昇する」とならなければなりません。
とはいえ、現実には名目賃金の上昇ペースは遅々としたままで、物価の方が上昇率がゼロに近づくことで実質賃金がプラス化する、という状況になっています。
すなわち、野田政権期の「停滞」の再来です。
もっとも、現在の日本は生産年齢人口対総人口比率が低下していっているため、各業界で人手不足が広まっていくことは確実です。と言いますか、広まりつつあります。
それにも関わらず、なぜ実質賃金がなかなか上がらないのか。もちろん、経営者が賃金引き上げ(十分な賃金引上げ)に乗り出せないためです。
それでは、なぜ経営者は賃金を引き上げないのか。理由は複数ありますが、結局のところ最大の理由は国民の間に広まった「デフレマインド」なのだと思います。
誰もが「値上げをできない」と思い込み、結果的に上昇する人件費の吸収ができない。人件費上昇を受け、企業が顧客側に「値上げ」をお願いしても、「仕事を切られるのではないか」と怯える。あるいは、実際に顧客側が値上げを受け入れない。
とはいえ、生産年齢人口比率がこのまま下がっていけば、最終的には「実質賃金が上昇する」か「生産ができなくなる」のどちらかに行き着きます。
当たり前ですが、「生産ができなくなる」産業が増えていけば、我が国は発展途上国化します。
だからこそ、デフレマインドにとらわれる必要がない「政府」が率先してモノやサービスを「高く買う」必要があるわけです。政府が公共サービスの人件費を率先して引上げ、生産者を雇用していくと、実質賃金の上昇が伝播します。
それに対し、安倍政権が推進する緊縮財政や労働者派遣法改正、外国移民受け入れ拡大は方向性が「真逆」です。
現在の安倍政権の政策が継続する限り、日本国民の実質賃金は上がらず(上げられず)、国民が貧困化し、最終的にはモノやサービスの生産ができなくなっていきます。すなわち、発展途上国化です。
この上、安倍政権は2017年4月に消費税を再増税するという姿勢を崩していません。現在の環境下で消費税を増税すれば、2014年4月同様に一気に実質賃金が下落することになります。
日本の国民の貧困化や発展途上国化を食い止めるためにも、消費税増税を含めた安倍政権の緊縮財政路線に「いい加減にしろ!」という声を叩きつけなければならないと思うのです。
このままでは、安倍政権は憲政史上「最も国民を貧しくした政権」になることが確実なのです。
「もんじゅ」失格で原子力政策の総崩れが始まった
山田厚史 [デモクラTV代表・元朝日新聞編集委員] 【第97回】 2015年11月26日 DOL
原子力の平和利用が輝いて見えた20世紀後半、高速増殖原型炉「もんじゅ」はナイーブな原子物理学徒の夢を形にした、未来そのものだった。それが今や「あだ花」に終わろうとしている。
原子力規制委員会は、もんじゅの事業主体である日本原子力開発研究機構を失格と判定し、運営主体を替えるよう文科大臣に勧告した。だが新たな引き受け手があるはずはない。20年間ほぼ止まったまま、という現実に「開発に見切りをつけろ」と言ったに等しい。
誰かが言わなければならないことを規制委が言ったに過ぎないが、ことは「もんじゅ」だけの問題にとどまらない。青森県六ケ所村の核燃料サイクルも事業化のめどが立たず、22回目の計画延期となった。核燃料廃棄物の中間処理場の目途も立っていない。最終処分場など夢のまた夢。原発の再稼働だけは進めるらしい。
20年もの足踏みを経て今や人材と技術の墓場
トイレのないマンションと揶揄された原発の弱点を、克服する切り札が高速増殖炉だった。原発で燃え残ったウランやプルトニウムを燃料に炉を炊き、消費した以上のプルトニウムを生み出す高速増殖炉。魔法のような技術が実用化されれば「核のゴミ問題」は乗り越えられる、とされてきた。
兆円単位の税金を惜しみなく投じて完成したものの、試運転中にナトリウム漏れの事故が起きた。それが1995年、以来20年間ほぼ止まったまま。2006年に運転再開したものの炉の重要部にクレーンが落ち、取り出すこともままならない醜態を演じた。
日本原研が信用を失ったのはナトリウム漏れの火災を起こした時、事実を隠し、嘘の報告をしたためことだった。クレーンの落下事故のあとも、検査・補修体制の不備がたびたび指摘された。それでも改まらない運営体制に規制委員会もさじを投げた。
今や「もんじゅ」は人材と技術の墓場になっている。計画に着手したころ「もんじゅ」は最新技術だったに違いない。しかし20年も足踏みしていたら技術は陳腐化する。そこにあるのはすでに出来上がった装置だ。いまさら最新の技術を投入する余地はほとんどない。時代遅れのシステムをひたすらお守りすることに、研究者はときめくだろうか。
装置も劣化する。原子炉は配管のお化けのようにうねうねとパイプが走っている。高温の金属ナトリウムが流れる配管は劣化する。継ぎ目にちょっとした不具合が起これば大事故につながりかねない。20年止まったままの機械や組織がどんなものか。リスクは日々増大し、人材が集まるはずもない。蘇ることはまずないだろう。
「もんじゅはすでに終わっていた。だが、止められなかった」。事情を知る人はそう指摘する。抱える研究者をどうするか、という原子力ムラの都合もさることながら、「もんじゅ」を諦めると、原子力政策のつじつまが合わなくなる。最大の問題は「プルトニウム」の処理だ。
アメリカの庇護下での「潜在的核保有国」の幻想
地獄の神であるプルートーの名を冠したこの元素は、核兵器に欠かせない原料だ。原子炉でウランを燃やすことでできる。すでに日本には45トンのプルトニウムがある。これは核兵器5000発分の原料に相当するといわれる。
核兵器不拡散を原則とする世界で、核兵器を持たない国がプルトニウムを保有することは制限され、国際原子力機関(IAEA)の厳しい査察を受ける。日本は非保有国の中で最大のプルトニウム保有国だ。本来なら持ってはいけないプルトニウムを大量に抱えることが許されているのは、アメリカの庇護があるからだ。
日本の原子力開発は冷戦を背景にアメリカの許諾のもとに始まった。湯川秀樹、朝長振一郎などノーベル賞学者を輩出した理論物理学の実績の上で、「アメリカの子分」として研究開発が許された。それが日米原子力協定である。手の内はすべて米国に晒す、核保有国にはならない、という大原則に基づき日米協力が謳われた。
平たく言えば、日本の原子力開発は「アメリカの下請け」である。その一方で、隷属的な関係に面従腹背しながら「潜在的核保有国」として国際社会でしかるべき地位得たいと考える人たちがいる。
外務省や経産省の高級官僚にその傾向がある。この手の人たちは「国際社会は核保有国が優越的地位に立っている」と考える。IAEAはアメリカを筆頭とする核保有国の権益を守る機関で、「世界平和のため核不拡散を」というお題目も裏を返せば、核保有国の既得権を守る参入障壁なのだ。
日本は戦争に負け、核の保有は許されない。しかし高い技術力と十分なプルトニウムを持つことで、その気になったらいつでも核保有国になれる、という地位を築くことが日本の国益だ、という論理である。
イスラエルは核を持っているらしいが、国際的な非難を受けない。核不拡散条約に加盟していないからIAEAの査察は受けない。アメリカといい関係だから特権的地位を与えられている。日本も同じだ。非核保有国でありながら大量のプルトニウムの保有が許されている。アメリカのお許しがあるからだが、その根拠になっているのが「もんじゅ」の存在だ。プルトニウムは高速増殖炉に使います。核兵器の原料ではありません、という理屈だ。
高速増殖炉は20世紀後半、先進各国が競い合って開発した。ウランを輸入に頼る日本はエネルギー安全保障の観点からも、使用済み燃料からプルトニウムを取り出し、繰り返し使える高速増殖炉に取り組んだ。科学者の胸を揺さぶる「夢の技術」への挑戦でもあった。米・英・仏・露などが挑戦したが、空気に触れただけで発火する高温の金属ナトリウムを配管の中で循環させるなどの製造技術と、高いコストが壁になって、ほとんどの国が成果を出せず開発に見切りをつけた。
止められなかったプルトニウム保有の「言い訳」
日本でも「もんじゅ」は金喰い虫になっていたが、止められなかっただけだ。
「プルトニウムをどうするか」が原子力行政の課題になった。ウランと混ぜ「MOX燃料」として原発で炊く、という方法もある。だが日本はMOXの製造をフランスに頼んでいる。輸送態勢も特別でコストが高い。割高な原発電気のコストを跳ね上げる。日本でMOXを製造する工場を六ケ所村に建設中だが、うまくいかず操業の延長が続いている。
一方で原発を再稼働させたい。いつまでも止めておくともんじゅ同様、組織の陳腐化が始まる。機器の劣化を防ぐためには停止中の原発でも稼働中と同様のケアが必要だ。
電力業界の立場に立つ経産省は何としても再稼働を進めたいが、動き出すとプルトニウムが溜まる。
「もんじゅ」は原子力行政を回すのに必要な“部品”だった。とっくの昔に無用の長物になっていたのに放置されたのは、行政につじつま合わせが必要だったから。行政の不在に国民はウン兆円を遣わせられたのである。
早い話、原発をやめればいいのだ。そうすればプルトニウムは出ない。そんなものをため込んで「潜在的核保有国」になどならなくていい。なまじプルトニウムなど持っていると「核の自主開発」などと言う勢力が出てくる。
アメリカもそれを警戒する。日本がおとなしく子分でいるなら特権を与えるが、戦後レジームからの脱却などと言って、対米独立=自主防衛=核保有、ということを考えるなら、日本に特権は与えられない。そんな風に考えているようだ。
戦後の世界秩序はアメリカ主導だった。核を握ったことでその力は一段と増した。二つの核大国、米ソのにらみ合いが冷戦時代の秩序だったが、ソ連が自滅しアメリカ一極支配となった。20世紀末からの十数年間は、市場経済が世界を席巻し、米国の繁栄は永遠に続くかに見えたが、それもつかの間かもしれない。
核技術も特別なハイテクではなくなり、途上国でもこなせるようになった。特権を維持したい保有国の秩序に逆らい、新規参入が後を絶たない。平和利用と言いながらも、原発はプルトニウムを通じて兵器と連動する。
原子力発電といっても、基本原理は産業革命でスチーブンソンが発明した蒸気機関が原型である。お湯を沸かしてタービンを回す。そのお湯をわかすために兵器として開発された原子力を使う。しかも発電に使われるのはその3割で、その他のエネルギーは海や空中に吐き出される。
福島の事故から何を学んだのか。引導を渡された「もんじゅ」は、日本の原子力行政の総崩れの発端になるかもしれない。折しも日米原子力協定が2018年に30年間の有効期限を終える。延長するか、新たな協定を結ぶか、ナシにするか。そろそろ考える時期が来た。
戦後の日米関係を考え直すきっかけでもある。核と原子力は戦後の日本を考えるキーワードだ。「もんじゅ」をどうするか。原子力と私たちの付き合い方を考える糸口はここにもある。
2015年12月03日TK
自衛隊の根本的な課題が浮き彫りになってきつつあります(写真:akiyoko / PIXTA)
集団的自衛権を行使できるようにする安全保障関連法(安保法)の成立から2カ月余り。反対デモが各地で続いていますが、このままいけば来年3月までに法施行がなされそうな情勢の中、自衛隊関係者の間にかつてない不安が広がっています。それは日本という国にとっても大きな問題です。
改めて、安保法とは従来の自衛隊法やPKO(国連平和維持活動)協力法などの10本の法改正を束ねた「平和安全法制整備法」と、自衛隊をいつでも海外に派遣できる「国際平和支援法」の2つで成り立っています。従来は、日本が直接攻撃を受けた場合に限って、自衛隊が出動できるというのが憲法の解釈でしたが、日本と関係の深い他国が攻撃されたり、国の存立や国民の権利が脅かされたりすれば、国会の承認を経たうえでの自衛隊への防衛出動が命じられるようになります。
戦場以外に限ってですが戦争中の他国軍の後方支援や、国際連合が直接関与しないPKOにも自衛隊が派遣され、展開先から離れた場所に駆けつけて他国軍や民間人を警護できる、いわゆる「駆けつけ警護」なども認められます。自衛隊員が、従来の範囲を大きく超えた活動に従事しなければならない事態が起こってくることは想像に難くありません。具体的には北朝鮮をめぐる不測の事態への対応や、イスラム国(IS)との戦う欧米各国の後方支援などが想定されます。
ところが、今の自衛隊は内部に大きな問題を抱えています。もともと隊員不足が指摘されていたうえ、先行きは一段と成り手の確保が困難になりかねません。さらにはメンタル(精神面)の不調を訴えたり、休職したり、自殺してしまったりする隊員が増加ないしは高止まり傾向にあるのです。
自衛官(自衛隊員)の定数は24万7160人(2015年3月31日現在、防衛省HPより、以下同じ)。これに対して現在の充足率は、陸上自衛隊91.5%、海上自衛隊92.8%、航空自衛隊91.6%、統幕91.5%で計91.7%となっています。「定員の9割以上なのだから十分高い」と見る向きもあるかもしれませんが、実態を見てみるとそれが必ずしも正しくないことがわかります。
階級別に見ていきましょう。少し専門的になりますが、陸上・海上・航空各自衛官は幕僚長の下に「2士」から「将」まで16階級に分かれた階級があり、このうち3尉以上の8階級を幹部自衛官といいます。その幹部の充足率は93.7%です。その次に来る「准尉」が92.6%、さらに下の「曹」で98%ですが、最も階級の低い「士」については74.6%となっています。
士とは「2士」「1士」「士長」と呼ばれる下から3番目までの階級に属する自衛官の総称です。つまり、最も現場で働く隊員がまったく足りていません。伝令や警戒業務、雑務、総務などは、本来は士の階級に属する自衛官の任務ながら、代わりにそれが一定の中堅自衛官に集中する事態にもなっています。
士の階級に属する自衛官が足りていないのは、自衛隊に入隊する人が減少している証です。そして今回の安保法成立で、より危険度が増す可能性が高まる自衛官の採用難はさらに深まるかもしれません。
安保法案の審議に入った時から、国民の自衛隊に対する感情は変化していきました。以前PKO法案が可決した時、自衛隊の周辺では、自動車の爆破などテロ活動が起きていました。当時自衛官だった筆者は、「制服で外出すると危険だ」といわれ、私服で自衛官ということを隠して集団で行動するように指示されたのを覚えています。
ブルーインパルスによるアクロバット飛行。航空自衛隊の存在を知ってもらうために、航空祭などでアクロバット飛行を披露している
安保法の成立後、そうでなくても過労状態だった中堅クラスの自衛隊員は、「『早く辞めた者勝ち』という話が、下の者たちから聞こえてくる」と漏らしていました。隊員の家族からも今後を心配する声が多数聞こえてきます。
現在、自衛官募集を任務としている広報官は「本人が入隊したいと言っても両親が許さないケースが増えて、募集が一層困難になっている」「今後の自衛隊について聞かれた時に堂々と語れない」などと明かしています。
そもそも1950(昭和25)年にマッカーサー主導の下で警察予備隊が発足し、1954(昭和29年)に自衛隊が創設されてから今日に至るまで、つねに自衛官志願者は少ない状況にあります。創設前後に「自衛隊の定員は35万人が必要」という議論も一部であったようですが、徴兵制度でもない限りは現実的に考えて限界とされた25万人程度で設定され、その水準のまま60年以上が過ぎています。
一時の内閣による防衛費削減案によって、その定数すらも、「常備自衛官」ではなく「即応予備自衛官」と呼ばれる隊員で穴埋めされる状況にもなっています。即応予備自衛官とは通常は民間機関で働き、有事や災害時に招集される非常勤自衛官です。
筆者は自衛隊の採用試験にかかわった経験がありますが、強く印象に残っているのは3年ほど前。「今までの3倍の自衛官を採用したいので、身体検査ではなるべく不合格にしないように」という趣旨の話が内部で出回ったことがあります。
富士総合火力演習での96式装輪装甲車。身体能力が優れていても、日々の訓練はつらく厳しいものだ
自衛隊の採用試験は主に筆記、面接、身体検査の3つです。筆記や面接は採点の仕方や基準の設定次第で、あえていえば「有能ではない人」も受かるようにできますが、身体検査の基準は本来ごまかしようがないはずです。
にもかかわらず、とにかく落とさないようにして人数を確保しなければならないほど自衛官不足は大きな問題には違いありませんが、ひょっとしたら、安保法の施行を前提として起こりうる今後の採用難を先取りした意図もあったのかもしれません。
ただ、そのような採用方針だと、それだけ隊員の質は落ちます。これはかつての「狂乱募集」という時代を想起させます。おおよそバブル期までのことです。当時は「名前を書ければ自衛隊に入隊できる」とか「犯罪者の隠れ家として自衛隊が使われる」という話が、まことしやかに飛び交っていました。肩を叩いて「君、いい体格をしているね! いい仕事があるよ」といって募集事務所に連れて行き、その場で試験を受けさせて、翌月には入隊していた人がいたというのはウソではない現実の話です。
しかし、狂乱募集の影響は、その後の自衛官による各種の事件、事故、メンタル不調、休職、自殺などという格好で表れました。自衛官の任務役割が拡大・多様化し、時代が大きくアナログからデジタルに変わっていく中で、イージス艦の情報漏えい問題以後の情報保全業務の増大など、日々変化し続ける環境についていけない隊員が多数出てしまったのです。人員としてはカウントされているが実際は働けない、または、その隊員を別の数人の隊員でカバーしているケースが見受けられます。
筆者は2008(平成20)年から、陸上自衛隊が駐屯地に置いた初めての臨床心理士隊員となりました。当時の防衛政務官、岸信夫氏に直接お会いし、自殺予防に関する任務を拝命しました。
そして、メンタル不調者や問題行動の隊員に知能検査を実施したところ、一般的な平均が100程度といわれるIQ(知能指数)が60以下という、知的に問題のある隊員や精神疾患のある隊員が多数存在していたことがわかりました。筆者はもともと1991(平成3)年入隊の陸上自衛官として、まず隊員募集の最前線に着任した経験があり、奇しくも、募集の現状を知っていたからこそ、それらの問題を推測できました。
加えて、自衛隊では海外派遣や災害対策など任務が拡大・多様化し、以前は10人でやっていた仕事を今は5人、ひどい時は1人でしなければならないケースも出ています。筆者は部隊の中で一定のできる人のところへ仕事がどんどん流れていき、結果的に潰されてしまう現状をよく見ていました。
それがさらに悪化した部隊では「ここにいたら過労死する」と、どんどん隊員が辞めていき、業務が回せない状況になることもありました。いわゆる学級崩壊のような状況が自衛隊内で起こりつつあるのです。自衛隊では、年間70人前後の自殺者が出ているという話を聞きます。戦争もしてないのに毎年1つの小さな部隊が全滅していることになり、とても大きな問題です。
前述した即応予備自衛官にも、メンタルヘルスの問題があります。即応予備自衛官は2011年の東日本大震災で初めて招集され、災害派遣に参加しましたが、そこには大きな落とし穴がありました。
現地での負傷については、常備自衛官と同様の保険を適応しましたが、このような大規模災害の支援者に起こりうる、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に関しては、まったく手立てをしていなかったのです。
常備自衛官に対しては、メンタルヘルスに関して派遣前後の教育やその後のケアは臨床心理士等の任務として行われていました。派遣が決まってすぐ、非常勤自衛官の経験がある筆者は、非常勤自衛官の保険適用について上層部に聞きました。
返ってきた答えは、「そこまでは考える余地がない」というものでした。上層部には問題提起していましたが、実際、筆者の下には、非常勤自衛官が災害派遣後、様子がおかしくなって困っているという家族から相談があったのです。これに対しては、保険の適用も自衛隊の保証も何もなく、非常勤自衛官が自分で戦わなければならない状況となっていました。
余談となりますが、定員充足率が93%と高い幹部自衛官ですが、現場からは「指揮官として優秀な人は少ない」という指摘が聞こえてきます。隊員の中では「あの指揮官がいたら、有事に自分たちの部隊は全滅してしまう」という話題がよくなされます。
読者の皆さんは、これを知って驚いたかもしれませんが、実際、訓練中に幹部自衛官が背後から部下に刺される事件も起こっています。中には、「俺の保身のために、この事件はなかったものとする」と傷害事件をもみ消すケースまであります。
自衛隊には有事の際だけでなく、地震や土砂崩れ、大洪水などの大規模災害時に最前線で国民を守る役割があります。しかし、安保法の施行を前に自衛隊の内部はたくさんの問題を抱えています。いざというときに誰が日本を守るのか。心配になるのは元自衛官の筆者だけではないはずです。
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2015年12月08日TK
東大を世界ランキングで追い抜いた、「学費・家賃」無料の学校とは?
「学費も家賃もタダです。お小遣いとして毎月10万円渡します。引っ越し代、渡航費も出します。まじめに勉強すれば大学院卒になれます」。
あなたのもとに、こんな夢のような留学の誘いが舞いこんだらどうするだろうか。しかもその大学は東京大学より上とされる、あの大学。果たしてどこの大学だろうか。
東大より上位の大学といえば、ハーバードやスタンフォード、ケンブリッジ大学などが思い浮かぶに違いない。だがその大学は、トップ校が集まる欧米ではなくアジアにある。
羽田空港から直行便で約8時間、赤道直下の国、シンガポールにあるシンガポール国立大学(National University of Singapore、通称NUS)だ。
世界の大学ランキングで有名な英教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーションによると、東大は世界で43位。一方でNUSは26位。タイムズと同じく大学ランキングの指標として有名な英国クアクアレリ・シモンズ(QS)でも東大は39位、NUSは12位だ。
東大は昨年まで、タイムズのランキングでアジアトップの23位だった。だが今年はランキングを20位も落とした。その結果NUSは両ランキングで東大を上回り、アジア1位の座を確かなものにしている。
私は昨年、冒頭の条件を示したNUSからの甘い誘いにつられ同校に進学した。合格メールをみた瞬間、「ほんまかいな」とビックリし、「何か裏があるのでは」と疑いの目で慣れない英文を何度も読み返してしまった。同時に、ここまでして生徒を集めるNUSの姿勢を目の当たりにし、「日本の大学は絶対にかなわないな」と痛感した。
文部科学省が火消しに追われた文系廃止、コピペした論文で博士号を得た小保方事件、G(グローバル)型・L(ローカル)型大学など、「日本の教育は本当に大丈夫か?」、「日本の教育だけでグローバル人材になれるのか?」、「いっそのこと、海外の学校に子どもを進学させようか?」と思われる方も多いのではないだろうか。
東大の最大のライバルであるNUSで学んだいま、はっきりといえる。「日本の大学の未来は暗い」と。
今回はハーバードではなくシンガポールでの体験から、日本の大学がアジアの大学にさえも負ける理由を取りあげたい。
みなさんは「そんな簡単に奨学金をもらえるの?」と疑問に思うだろう。そもそも海外の奨学金は無償の給付型で日本のような借金ではない。確かに多くの大学では一部の人しか奨学金は支給されない。だが、私が学んだNUSのリー・クアンユー公共政策大学院では「留学生の半分が奨学金を受けている」という。
なぜNUSは気前がいいのか?
同級生の中には派遣元からの補助、地元の奨学金を受けている生徒もいた。そういった生徒を除いた同級生に限ると、私の課程では多くが同校の奨学金を受けていた。実際に「この学校はとても気前がいいからね」と学校長が語っていたほど余裕がある。
資金はどこからやってくるのだろうか。提供元をたどると海を越えた華僑のネットワークが浮かんでくる。
たとえば私は東南アジア有数の金持ちといわれたシンガポールの李光前の財団から計500万円を受けていた。ルームメイトはアジア1の金持ちともいわれる香港の李嘉誠の財団から。ほかにも台湾の張栄発(海運、航空業を営むエバーグリーン〈長栄〉・グループの創業者)やインドネシア系華僑など、おカネの先をたどると世界でも有名な中華系の富豪があがる。しかも学校側がグローバル規模で生徒を集めようと外部から資金を調達してくるため、奨学金はかなり充実していた。11月にも中国と台湾の首脳会談を仲介するなど、華僑が人口の7割を占めるシンガポールならではのおカネの集め方だ。
在学中に受け取ったのは奨学金だけはない。1週間のインド旅行にもタダで行かせてくれた。
同校では世の中にある問題をテーマにしたプロジェクトが全生徒に課される。在学する1年を通じ、コンサルタントのような形でかかわる。私たちに課されたのは「ガンジス川の公害を解決しろ」だった。ガンジス川は汚染が深刻だ。インドだけで解決できればいいのだが、上流にはネパールやブータン、下流にはバングラデシュがある。上流が水を汚せば、下流の他国に被害が及ぶ。
インドに研修に訪れた学生たち
昨年12月に首都のデリー、ヒンズー教の聖地で有名なバラナシを全同級生で訪れた。学生の現地視察、インド、ガンジス川と聞けば、どんな旅行が思い浮かぶだろうか。汚い安宿の共同部屋に雑魚寝し、夜行列車で移動する……同級生の女性を中心に、旅立つ前はそういった心配ばかりをしていた。
だが実際はビジネスマン御用達の四つ星ホテルに、エア・インディアでの快適な旅。しかも自由時間には世界遺産への観光までついてくる。世界銀行やインド政府の高官、NGOの担当者などとの会合や議論の場も毎日設けられ、学びも豊富だった。
すべての旅程を学校側が手配し、参加者の学生はまるで修学旅行のような気楽さ。地元に詳しいインドの同級生と、夜な夜な飲みに出かけ、仲が深まり、彼らの素顔にも触れられた。しかも全行程タダ。労力、おカネ、調整など、日本の大学はここまで手間をかける余裕があるだろうか。
生徒の多様性も日本の大学にはない特長だった。ここでみなさんに質問してみたい。私が所属した修士課程の同級生59人のうち、何人がシンガポール人だっただろうか?
シンガポールの地元の大学院なので、大半はシンガポール人というのがおおかたの予想だろう。私も進学する前はそう思っていた。だが、たったの11人しかいなかった。
ほかの学生はというと多い順に、ASEAN15、中国9、インド8など。珍しい国ではブータン、アフガニスタン、カザフスタンなどがいた。59人のうちアジア以外は米英などの5人のみ。今後の成長市場であるアジアを中心に生徒を集めている。
おかげで中国やベトナムの共産党員、幸福な国で有名なブータン国王の秘書、フィリピン・ミンダナオ島で反政府勢力との内戦に何年も従事した軍人、という珍しい友人まで作ることができた。学校が各国におもむき説明会を開くなど、アジア全域からの募集に力をいれ、多くの学びを生徒が得られるようにと努めている結果だ。
今年はさらに珍しい国籍が加わった。新入生に北朝鮮の生徒が2人いる。2人とも政府の職員で、教授がわざわざ現地で面接して選んだという力の入れよう。北朝鮮で生まれ育った生徒は、東大でもハーバードでもお目にかかれない。
そんな同級生たちと、近くの屋台街で地元のタイガービールで乾杯し、「北朝鮮ってフェイスブックできるの?」「金正恩(キム・ジョンウン)第1書記のこと尊敬している?」などと、日本で絶対に知り合えない彼らの本音と素顔にじかに接することができる。
生徒に加え、教授陣も国際色が豊かだった。1年間で受けた11クラスのうち、教授の出身国はシンガポール、日本、オーストラリア、インド、タイ、スリランカ、中国、オランダ、韓国。教授は専門分野に加え、出身国の状況も詳しい。授業を受けているだけで他国の様子がわかり、視野が広がる。しかも生徒がアジア全域から来ているため、アジア全体の話題を扱う。シンガポールの大学にもかかわらず、授業中の話題はシンガポール以外がほとんどだ。
世界遺産の中という最高の立地
生活環境もすばらしかった。学校は「シンガポール植物園」という世界遺産のなか。そんな貴重なところに学校があるにも関わらず、通学にわざわざ電車やバスを使わない。学生寮はキャンパスから歩いて10分のところで、地下鉄「植物園」駅の目の前。私の部屋からは道路を挟んで世界遺産の森が見えた。空気の澄んだ緑のなかを、毎朝歩いて通っていた。
学校と寮があるブキティマ地区は、東京でいう青山や六本木のような一等地。いうならば、イチョウ並木で有名な明治神宮外苑に学校があり、東京メトロ銀座線の外苑前の駅前に住んでいるようなイメージだろうか。買い物にも便利で「シンガポールの銀座」と呼ばれるオーチャード通りまでバスで15分。学生寮はほかにもあり、そちらにはスイミングプール、フードコート、24時間営業のスターバックスなどがあった。
世界大学ランキングに関する限り、研究や教授の質の高さなどいろいろな要素で順位は決まる。私は学者や研究者ではないので、学問で東大や京大の方が優れているのか、NUSの方が優れているのかわからない。いくらNUSが「アジア1位」とランキングをもとに主張したところで、何人ものノーベル賞受賞者を輩出している点からいえば、理系を中心とした研究では日本の大学の方がまだまだレベルは高いだろう。
ただ大学を研究ではなく、教育サービスという視点から見たらどうだろうか。一人の生徒として思う。NUSでの充実した日々を振り返り、「日本の大学に通いたいか?」と問われれば、明らかに「いいえ」だ。同じ時間とおカネを費やすなら、「英語が身につき、アジアへの理解が深まり、世界中に仲間ができるNUSの方が絶対に楽しい」と自信をもっていえる。
NUSは最近になって力をつけてきたせいか、カリキュラムがうまく練られていなかったり、深く考えされるような学びのある授業が少ないと感じたりもしたが、多様な学びは弱点を補うほどの魅力がある。
一緒に学んだ生徒には、米国のコロンビア大学を蹴って入学した者、社会科学で世界トップ校であるロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)やオックスフォード大学を卒業した者などもいた。彼らの目には日本の大学など視野に入っていないし、受験さえもしていない。
ちょうど日本では文系廃止など規模の見直しに向けて大学改革が進んでいる。一方、「資金集め」「国際性」「環境」など、アジア1位の大学が生徒の満足度を高めようと対照的に取りくむのは、あまりにも皮肉としか言いようがない。今後もNUSはグローバル規模で優秀な教授と学生を集め、大学のレベルを底上げし、さらに上位のランキングを目指すだろう。
実は冒頭の話には別の条件もあった。
「1カ月以内に合格を受け入れれば、10万円の追加ボーナスをお渡しします」。
露骨におカネで釣る方法にあきれたものの、このあざとい戦略は日本の大学が絶対に持たないしたたかさだろう。
東大の世界ランキング下落の裏側には、日本の大学が考えつかないような、ライバル校による凄まじく地道な努力があるのだ。
2015年12月03日
2日、ソウルで、記者会見する朴裕河教授(宮崎健雄撮影)
【ソウル=宮崎健雄】著書で元慰安婦の名誉を傷つけたとしてソウル東部地検から名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴された、韓国・世宗大の朴裕河(パクユハ)教授は2日、ソウル市内で記者会見し、「検察の非人権的な調査と起訴に強く抗議する」と主張した。
同地検などが著書の内容をきちんと確認していないとして、今後、反論資料を公表するという。慰安婦を巡る学術研究が捜査対象となった今回の事件は韓国国内でも波紋が広がっており、韓国の大学教授ら約190人が連名で2日、抗議声明を発表した。
問題となった2013年出版の学術書「帝国の慰安婦~植民地支配と記憶の闘い」について、朴教授は元慰安婦の女性を批判したり非難したりするものではないと改めて強調。ソウル東部地裁が今年2月、34か所の削除をしなければ出版を認めないとした仮処分についても抗議する意思を表明し、原告側に訴えを取り下げるよう求めた。
朴教授の著書を巡っては、元慰安婦らが昨年6月に刑事告訴。ソウル東部地検は先月18日、著書が慰安婦の強制連行を否定し、慰安婦たちが「日本軍と同志の関係にあった」などと指摘したことを「虚偽」と認定し、在宅起訴した。
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11月24日に起きたトルコによる露軍機撃墜事件。トルコ政府はロシアに領空侵犯があったと主張しますが、メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』は「攻撃はトルコ政府がISからの石油密売ルート問題を隠すために行った幼稚な戦術」と手厳しく論じています。
11月24日にシリア北部のトルコとの国境地帯でトルコ軍F16 戦闘機がロシア軍Su24爆撃機を撃墜した事件の真相は、まだ詳らかではないが、トルコ側のきわめて軽率かつ混乱した判断によるものであった可能性が濃厚である。
「国籍不明機が領空侵犯した」というのがトルコ政府の主張だが、そのトルコ政府の国連への公式報告では、ロシア軍機がトルコ上空を通過したのは「17秒間」であり、それすらもロシア政府は否定していて領空侵犯はしていないとしている。そもそもこの一帯でロシア軍機が活動していることは公知の事実であって、それを国籍不明機としていきなり撃ち落とすこと自体が異常としか言いようがない。
NATOの一員でもあるトルコは、米国主導の対IS「有志連合」に参加はしているものの、実はIS撲滅にそれほど熱心ではなく、サウジアラビアや湾岸産油国の「親米スンニ派」諸国と同様、シリアの「反米シーア派系アラウィ派」=アサド政権の打倒を最優先する立場である。
それに加えて、トルコ独自の事情として、シリアとの900キロ(さらにその東に続くイラクとの国境を加えれば1,200キロ)に及ぶ長い国境地帯を中心に1,500~2,000万人近いクルド人少数民族を国内に抱えており、イラク国内のクルド人自治政府やシリア国内のクルド人勢力が、ISとの戦いで力を増して、トルコ国内のクルド人を刺激して、「大クルド国」への独立志向が強まることを何よりも恐れている。
そのためトルコ政府は、シリア国内のクルド人地帯にモザイク状に入り交じって点在する(民族的に親戚筋に当たる)トルクメン人部族を積極的に支援して、反アサド武装勢力として育成を図ってきた。このシリアン・トルクメン人は、反アサドではあるが必ずしも反ISではなく、しかしトルコ政府にとってはそんなことはどうでもよく、本音は彼らが力を持つことでシリアとの国境の南がシリアン・クルド人の支配地域になることを牽制することにあった。
ロシアの至極真っ当な戦略提案
このトルコのややこしくも小賢しい思惑をブチ壊したのが、ロシアの軍事介入である。
ロシアは一貫して、米欧などの有志連合がアサドを主敵とする戦略を少なくとも一時は棚上げにして、正統な主権国家の代表であり国連加盟国でもあるシリア政府との和解に基づく合意と許可の下、(この紛争の当事者としてはほとんど唯一まともな軍隊と言える)シリア政府軍を地上戦の前面に押し立てて、対IS壊滅作戦に全力を集中すべきであるという、至極真っ当な戦略を提案し続けた。しかし、9月の国連総会とその機会を捉えた露米首脳会談ではオバマの決断するところとならず、その2日後にロシアは単独での対IS空爆に踏み切った。
しかしロシアは周到極まりなく、空爆に踏み切りはしたものの有志連合を代表する米国との間で空爆のための空域管理についてルールを確認して自軍の飛行ルートも事前通告するなど、無用な事故を防止する措置をとると共に、(ここが肝心なところだが!)あくまでシリア政府軍の要衝アレッボ奪回を目指す地上作戦と連動させて空爆を行った。
すると、何が起きたかというと、これは詳細な情報がないのであくまで推測にすぎないが、クルド人とトルクメン人及びアルカイーダ系の反体制勢力が混在する国境西部一帯では、シリア政府軍の進撃にトルクメン人及びアルカイーダ系の武装勢力が抵抗し、それに対してロシア軍機が空爆を以てシリア軍を支援した。それが、西側報道で「ロシアはISを攻撃しないで反アサドの反体制勢力を空爆している」と言われていることの実相である。
それに対してトルコは苛立ち、「我々の親戚であるトルクメン人を爆撃するとは何事か」という思いを募らせた。それで、おそらくトルコのエルドアン大統領は「もし明白な領空侵犯があって大義名分が立つならロシア機を撃ち落としても構わない」という命令を下していたのではないか。IS壊滅よりもシリアン・トルクメン勢力の擁護とクルド人支配地域の拡大防止を優先するという戦略的な錯乱である。
ISの「石油輸出」を断ち切る
以上のような事情があるので、トルコのシリアとの国境に対する管理はまことに緩い。もちろん国境線が長く、地形も複雑で、なおかつその両側ともクルド人地域が多くて支配が行き届かないという難しさはあるけれども、それにしても、ISと世界とのほとんど自由な行き来を許しているのはトルコ国境であって、テロリストの出入りも、物資や武器や資金の出入りも、すべてそこで行われている。ISの壊滅と戦闘員の全世界的拡散を止めるには、この国境を完全封鎖するしかない。
もちろんトルコ政府は公式には、国境警備に全力を挙げていると言ってはいるが、それを信じる者はいない。
とりわけ問題なのは、ISがイラク北部のモスルはじめ多数の油田を制圧して独自に原油を生産し、精製工場まで建設して製品を製造し、もちろん自家消費分はあるけれどもその大半を輸出し「1日200万ドル(約2億5,000万円)」とも言われる莫大な収入を得て、それを主要な資金源としていることである。
それをどうやって輸出しているのかと言えば、ISの南はシリア、イラク、西はイランで出口がないから、全量がトルコ経由と考えられているが、その事実を知りながら米国はじめ有志国は取り立てて問題視してこなかった。トルコの立場への遠慮、石油施設を完全破壊することで後々の復興が困難になるという配慮などからのことで、実際、米国は昨年9月以来の空爆で一貫して石油施設の破壊を避けてきていた。その優柔不断がISの増長をむしろ助けてきたのである。
それに対してロシアは、ISの最大の資金源である石油輸出を断ち切ることが肝心だと考え、11月13日のパリ惨劇の直後から、石油施設やタンクローリーによる陸上輸送ルートに遠慮会釈ない爆撃を加え、またそのことを国際的にアピールし始めた。
▼プーチンは11月16日、テロ対策が中心議題となったトルコ=アンタルヤでのG-20首脳会議後の会見で「ISに資金提供している国がG-20加盟国を含めて40カ国以上に上る」として、油田からトルコ国境へと向かうタンクローリーの車列を映した偵察衛星画像を首脳会議の席上で公開したことを明らかにした。トルコはもちろんG-20の一員であり、エルドアン大統領はこのサミットのホスト役。プーチンの爆弾発言に震え上がったにちがいない。
▼プーチンは、ロシア機撃墜の2日後の26日には、オランド仏大統領との会談後の会見で初めてトルコを名指しして「略奪された石油を積んだ車列が、昼夜を問わず、シリアから国境を越えてトルコに入っており、まるで動く石油パイプラインのようだ。これをトルコ政府が知らないとは信じられない」と非難した。
▼またロシアのラブロフ外相は26日、モスクワでの会見で「撃墜が故意ではなかったとの説明に、われわれは深刻な疑いを抱いており、計画された挑発行為ではないかと考えている。撃墜はロシア軍機がタンクローリーや油田を極めて効果的に爆撃し始めた後で起きた。この事件によってISの違法な石油取引の状況に新たな光が当たるようになった」と指摘した。
▼さらにシリアのムアレム外相は27日、訪問先のモスクワで「トルコがロシア軍機を撃墜したのは、エルドアン氏の娘婿の石油利権を守るためだ」と語り、これを受けてロシアのペスコフ大統領報道官も28日の国営テレビ番組の中で「エルドアン氏の娘婿のベラト・アルバイラク=エネルギー相がISの石油利権に関わっているとの一定の情報がある」と述べた。
もちろんエルドアンはISの石油輸出への関与を激しく否定して「ロシアがもしそれを証明するなら大統領を辞任する」と語り、さらに「ISの石油を買っているのはアサド政権と、それを支援する者だ」として、シリアとロシアの二重国籍を持つシリア人実業家の存在を示唆した。トルコ政府が直接にISの石油輸出に関与しているとは考えにくいが、娘婿をはじめとした政府高官がトルコのマフィア勢力や国際密売組織と手を結んでそこから賄賂を受け取っているというのは(この国では)大いにありうることであるし、そうでないとしても同政府が密売ルートを黙認してきたことは疑いのない事実である。
こうしたロシアの暴露をさすがに米国も無視することが出来なくなって、23日ペンタゴンは、シリア北東部のISの石油精製工場付近でタンクローリー238台を空爆で破壊したと発表した。ロシアと米国が共にISの石油密売ルート潰しに向かうというこの事態に、エルドアンは周章狼狽し、その翌日にロシア機の撃墜を命じたと思われる。ロシアを悪者に仕立て「NATOで結束してロシアに当たるべきだ」とアピールすることで、石油密売ルート問題から目を逸らさせようという幼稚な戦術で、もちろんそれは失敗した。
IS撃滅への道筋
本誌が繰り返し述べてきたように、ISを壊滅させるには、シリアにおいてはシリア政府軍を、イラクにおいてはイラク政府軍とクルド族民兵を地上戦の前面に押し立てて、それをイランの革命防衛隊やレバノンのヒズボラなど戦闘能力の高い部隊で後押しし、それに米露などの特殊部隊が随伴して情報収集や作戦立案を補助し、その上で米仏露などの空爆で支援するという重層的な配置を取る必要がある。なぜなら、IS部隊を軍事力で打ち負かすことだけでなく、奪回したIS支配地域で治安と社会の秩序を立て直し経済と生活の再建に着手なければならず、それには残存する部族勢力と和解しその協力を求めていく政治力や、その秩序を維持していく行政管理能力が不可欠だからである。米国には、ブッシュ弟などのように、今も「米国が本格的に地上軍を送るべきだ」という馬鹿な議論があるが、彼はブッシュ兄がイラクの国家と社会を破壊しただけで何ら後始末ができなかったことがISを生み出したという歴史の教訓が何も分かっていない。
ロシアはすでにシリア政府軍をロシアの特殊部隊でバックアップするという形をとりつつある。今回の撃墜事件でパラシュートで脱出した2人のパイロットのうち生き残った1人は、「ロシアとシリア政府軍の特殊部隊の約12時間かけた徹夜の作戦」で救出された。しかしその作戦中に「ヘリが過激主義者に銃撃されて損傷しロシア海軍歩兵1人が死亡した」(ロシアNOW 11月25日付)。ということは、アレッポ奪回に向かっているシリア政府軍には相当に練度の高いロシアの特殊部隊や海軍歩兵(米国の海兵隊に当たる)部隊が随伴していることを示す。
米国やトルコは、未だに反体制派をISに立ち向かわせようとしているが、彼らはそもそもISと戦う意志が薄い上に、十分な戦闘力を持ち合わせず、また仮にIS支配地域を奪回してもそこで秩序回復を成し遂げる政治力も行政能力もない。全く無駄な努力である。
幸いにして、米国がロシアに同調して石油施設爆撃に踏み切り、フランスの仲介もあってロシアのシリア北部爆撃の意味もようやく理解するようになって、事態はロシアのペースで推移しつつある。ここで米国はじめ有志連合が思い切って「アサド打倒が先決」「そのための反体制派支援」という誤った戦略方針から決別しないと、IS壊滅は適わず、今回の撃墜事件のような無意味な混乱と犠牲を生み、米本国を含む凄惨なテロの拡散が広がるばかりである。image by: Valentina Petrov / Shutterstock.com
『高野孟のTHE JOURNAL』より一部抜粋
著者/高野孟(ジャーナリスト)
早稲田大学文学部卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。現在は半農半ジャーナリストとしてとして活動中。メルマガを読めば日本の置かれている立場が一目瞭然、今なすべきことが見えてくる。
【フランクフルト=共同】欧州中央銀行(ECB)は3日、ドイツのフランクフルトで理事会を開き、金融機関が余剰資金をECBに預ける際に手数料を課すマイナス金利の幅を今の0.2%から0.3%に広げることを決めた。9日から適用する。ユーロ圏の物価低迷に伴うデフレ懸念を解消するのが狙い。国債を中心とした資産を買って、資金を大量に供給する量的金融緩和の拡充も検討している。
米国の年内利上げ観測が強まる中でECBが追加緩和すれば、米欧の金融政策が正反対となり、市場の波乱要因となる可能性がある。日銀の政策判断にも影響しそうだ。
追加緩和は、デフレ阻止のほか、パリ同時多発テロに伴い消費が萎縮し、景気を圧迫しかねないとの懸念に対応する狙いもある。
ECBは今年3月、月600億ユーロ(約7兆8千億円)の資産の購入を開始。2016年9月末を終了のめどとしている。購入規模の拡大や期限延長のほか、買い取り資産の種類を広げることも検討している。
マイナス金利は企業や家計への融資を促すのが目的。主要政策金利は過去最低の0.05%に据え置いた。
ECBは圏内の物価上昇率見通しを下方修正する見込み。11月の消費者物価指数は前年同月比で0.1%の上昇にとどまり、目標である2%弱との開きが大きい。
2015年11月27日TK
11月24日、プーチン大統領(写真)は、米国がさらなる関与に二の足を踏むなか、シリアやウクライナ情勢、過激派組織「イスラム国(IS)」との戦いにおいて、ロシアを「不可欠な国」にしようとしている。ソチで10月撮影(2015年 ロイター/Alexei Nikolsky/RIA)
[ブリュッセル 24日 ロイター] - プーチン大統領は、シリアに介入することで、比較的孤立していた状態からロシアを脱却させることに成功。そして米国がさらなる関与に二の足を踏むなか、シリアやウクライナ情勢、過激派組織「イスラム国(IS)」との戦いにおいて、同国を「不可欠な国」にしようとしている。
しかしこのような地政学的なポーカーゲームで、プーチン氏が勝ったままゲームをやめられるかは分からない。とりわけ、24日に発生したトルコ空軍によるロシア軍機撃墜のような予期せぬ事態が起きた場合はなおさらだ。
空爆などによるロシアのシリア介入は、アサド政権側を再び優位に立たせ、イスラム国に対する空爆作戦を行う米国主導の有志連合は劣勢を強いられていた。
しかし130人が犠牲となったパリ同時多発攻撃と乗客乗員224人全員が死亡したロシア旅客機墜落事件を受け、プーチン氏は狙いの的をイスラム国に移し、フランスに協力を申し出た。ロシア国防省は、シリア国内の標的に落とされる、「パリのために」と書かれた爆弾の写真を公開した。
「フランスは戦う意思はあっても能力を出し切れず、米国は能力があるのにやる気に欠けた状態のなか、ロシアにはISに対して大規模な武力行使を行う意思と能力がある」と、パリにある戦略研究財団でシニアリサーチフェローを務めるブルーノ・テルトレ氏は指摘する。
ウクライナ情勢をめぐる行動で西側諸国からのけ者扱いされていたプーチン氏だが、ハードパワーと外交力を組み合わせた「レアルポリティーク(現実政治)」のおかげで、同氏は今や国際舞台の場で人気者となっている。
だからと言って、クリミア併合などで受ける西側からの経済制裁をプーチン氏が免れるわけではない。トルコで先週末開催された20カ国・地域(G20)首脳会議に出席した西側諸国の首脳らは、ロシアに対する経済制裁をさらに半年間延長し、来年7月までとすることで合意した。
シリアへの介入も成功を収める保証はない。軍事介入は意気揚々と始まっても、失敗に終わることが往々にしてある。英米はそれをイラクとアフガニスタンで学び、旧ソ連も1980年代にアフガニスタンで経験した。
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1990年代後半に当時のオルブライト米国務長官が自国を「不可欠な国」と主張したが、その地位にロシアを押し上げたとプーチン氏は考えている。
だが、プーチン氏は背伸びし過ぎており、国内の武装勢力や中東産油国からもたらされる安全保障上の、そして経済上の危険を蓄積させていると、一部の専門家は指摘する。
他の大国との関係に影響しかねないのは、プーチン氏が「背後から刺された」と表現したトルコによるロシア軍機撃墜だけとは限らない。西側諸国の部隊が関与する「誤射」や多数の民間人が犠牲となるような攻撃も、プーチン氏の作戦をコースから外れさせる可能性を秘めている。
「地政学的に見て、プーチン氏は優れた戦術家だ。私は嫌いだが、好き嫌いは別にすれば『プーチン流政治』はかなりうまくいっている」と、かつて駐ロシア欧州連合(EU)大使を務めたマイケル・エマーソン氏は語った。
同氏によれば、プーチン氏がシリアで主導権を握ることで米国に不意打ちを食らわせたのはこれが2度目。プーチン氏は、軍事的敗北を喫する可能性からアサド政権を救い出し、自身をシリア問題のいかなる解決にも不可避のパートナーとさせた。
1度目は2013年8月、シリアが化学兵器を使用したことを受け、オバマ米大統領が「越えてはならない一線」を越えたとして空爆を検討していた際、プーチン大統領がオバマ大統領に外交的手段を取るよう説得したときだ。
空爆をしないという米国のこの決定は「外交的な大きな過ち」であり、同国の中東疲れを暗示していたと、デ・ホープ・スケッフェル元北大西洋条約機構(NATO)事務総長は指摘する。
ロシアの大国としての地位を取り戻そうとするなか、欧米の弱さを感じ取り、それを利用するというプーチン氏の生まれ持った才能は、同氏の精力的な外交政策の特徴の1つだと言える。
「彼(プーチン氏)は政治的機会だけでなく、権力にも驚くほど鼻が利く」と、シンクタンク「欧州外交評議会(ECFR)」のディレクター、マーク・レナード氏は指摘。「ウクライナで身動きできなくなり、そこから抜け出す方法を見つけられないでいた。ロシアは当初、アサド政権が窮地に陥っているのでシリアへの介入を強化したが、そこへパリで事件が起き、驚くべき方針転換をしてみせた」。
米主導の対イスラム国空爆作戦では小さな役割しか担っていないフランスのオランド大統領は、シリアでの同組織掃討のためロシアを含む1つの連合を形成するよう訴えている。同大統領は26日、ロシアを訪問し、プーチン大統領と協力に向け会談を行う。
パリ同時攻撃とロシア旅客機墜落事件が起きる以前は、ロシアによる空爆の約90%が、西側の支援するシリア反体制派に対するもので、残りのわずか10%がイスラム国に対するものだったとフランスは考えていたと、前述の戦略研究財団のテルトレ氏は述べた。だが先週、その比率はほぼ逆転したという。
西側が支援する、特に米国製の対戦車ミサイルTOWを手に入れた反体制派への攻撃をロシアは続けているが、少なくともその半分は現在、シリアのイスラム国拠点を標的にしていると、西側の他の専門家たちも指摘する。
報道によると、ロシアとフランスはイスラム国が資金源とする石油精製施設を攻撃した。
プーチン氏がシリアで政策を転換し、4年にわたる内戦終結に向け交渉の余地をつくる可能性がある一方で、旧ソ連国境を越えての武力行使はロシアにとってリスクを高める結果となっている。
「プーチン氏は優れた戦術家ではない。イスラム教スンニ派を敵に回している。彼らは同氏に恨みを抱くだろう」と、ロシア専門家で米シンクタンク、ブルッキングス研究所所長のストローブ・タルボット氏は指摘。「国内ではすでに、イスラム過激派との問題を抱えていた。それがロシア旅客機墜落事件以降、国外でもISという問題に対処しなくてはならなくなった」
同氏によると、プーチン氏はシーア派が多数を占めるイランやレバノンのシーア派組織「ヒズボラ」と協調することで、西側による制裁でロシア経済が依存する石油の価格を引き下げているサウジアラビアなどスンニ派諸国を敵に回すリスクを負っているという。
欧州の外交官らは、たとえロシアや欧米諸国がイスラム国掃討で団結し、シリア問題の解決に共通の利益を抱くとしても、トルコやサウジ、そして恐らくイランはシリアで内戦が続くことに利益を見いだす可能性があるとみている。
「プーチン氏は、アサド政権を継続させるか、ISを壊滅させるかの選択に直面するという、自身が招いた状況で板挟みにあっている」とタルボット氏は指摘。「ISは勢力を拡大しているため、アサド政権退陣の先延ばしはロシアにとって大きな代償となっている」
ロシア国内では、1990年代のチェチェン紛争以来、モスクワや他の都市で攻撃を繰り返すカフカス地方のイスラム武装勢力が急速に台頭する可能性に直面していると、タルボット氏は付け加えた。(Paul Taylor記者 翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)
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2.Trend
既存業界を“壊す”ダイナミズム 、群雄割拠する中国Eコマース
加藤 出 [東短リサーチ代表取締役社長] 2015年11月26日 DOL
シェアリングエコノミーの代表格である米ウーバーの中国版画面。新車時の価格帯によって配車される車が分けられている Photo by Izuru Kato
中国ではインターネットを使った新しいサービスが驚くほど急拡大している。そして、Eコマースの普及に伴い、ここ数年、宅配便の売り上げが劇的な伸びを示している。
2012年は1055億元(約2兆円)だったが、14年は2045億元(約4兆円)だ。今年は10月までで前年比47%増である。
「デパートや家電量販店にはほとんど行かなくなった」という声がよく聞こえてくる。
買い物代行のアプリもある。近隣のスーパーで販売されている食品や日用品が画面に出てきて、それをクリックすると業者が買って配送してくれる。配送人は店で支払った際のレシートを持ってくるのだが、なんとその5%引きの金額を払えばよいのだという。自分で店に買いに行くよりも安いので、知人の奥さんはスーパーにはもう行かなくなったそうだ。
シェアリングエコノミー(共有型経済)の普及も速い。スマートフォンを使った配車サービスは、中国最大手ディディ・クアイディが圧倒的なシェアだが、そこを米ウーバーが切り崩そうとしている。
ウーバーのスマホ画面(上写真)を見せてもらったが、配車される車は、新車時の価格帯によって分けられている。最高級クラスは英国製SUVのレンジローバーである。「高級ウーバー」は30万元(約580万円)を超す車らしい。
一番利用料金が安いのは「人民ウーバー」だ。すごい名前だが、10万元(約190万円)以上の車であり、タクシーよりはるかにきれいで、かつ料金も安い。クリックすると、画面上には2分以内に来ることができる車の現在位置が表示される。
ウーバーはシェア拡大のために現在強烈なキャンペーンを行っている。11月14~15日の週末に北京でウーバーを5回以上利用した人は、翌週に10回まで15元(約290円)以下の乗車料金がタダになるという。ガソリン代よりも安い乗車コストなので、自分で車を運転する機会がすっかり減ったという人がいた。これだけ安いと、「タクシーの廃業が増えるのではないか」と同情する声も聞こえた。
洗車サービスのアプリもある。北京は空気が汚いせいもあって、洗車のニーズは高い。しかし、週末に洗車店は混雑する。その点、このアプリで車の駐車位置を指定すると、水を積んだ三輪車がやって来て洗車してくれる。終わると仕上がりの様子が写真で送られてくるので、見に行く必要もない。写真を見てOKだったら、モバイルバンキングで決済となる。1回目の利用は無料、2回目以降は30元(約580円)である。
グルーポンのような、ネット上で人を集めてレストラン等で団体割引価格にするアプリ(団購)も人気がある。最近は自動車の販売店でもこれが使える。北京郊外の日系ディーラーをのぞいたら大勢の客で繁盛していたのだが、皆団購に申し込んだ上で来ていた。割引率が高まるからだという。
中国人の友人は、「もうける手はないかと一生懸命考えて新しい商売を思い付いても、スマホのアプリを見ると大抵誰かが既に始めている」と苦笑いしていた。
新しい商売が続々と登場するのは、人口13億人超の巨大市場故に、一山当てればリターンは大きいと考える人が絶えないからだろう。ただ、それは既存の業界を破壊する力も有している。中国政府はそういうダイナミズムを利用して、変化を嫌う国営企業に刺激を与えたがっているが、その試みが吉と出るか凶と出るかが注目される。(東短リサーチ代表取締役社長 加藤 出)
(参考)普通の人が宇宙旅行できる時代がついに来る!?
民間企業「スペースX」宇宙船ドラゴンの偉業
瀧口範子 [ジャーナリスト] 【第199回】 2012年6月7日 DOL
先だって、国際宇宙ステーションへ貨物を輸送し、無事地球に帰還した宇宙船ドラゴン。このドラゴンの成功は、民間企業による宇宙飛行時代がいよいよスタートしたことを世界に知らしめる画期的なできごととなった。
ドラゴンを送り込んだのは、宇宙ベンチャーのスペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ。通称「スペースX」として知られる企業だ。創業は2002年。たった10年足らずで、宇宙飛行という夢のような分野で実力を見せつけた。
スペースXは、創業数年後から精力的にロケットの発射実験を繰り返してきた。いくつかの失敗もあったが、何社かある民間宇宙ベンチャーの中でもっとも資金に恵まれ、もっとも積極的に事業を拡大している存在だ。
今回は、打ち上げロケット「ファルコン9」が無人宇宙船ドラゴンを搭載し、所定の軌道に投入。ドラゴンはその後宇宙ステーションとドッキングして貨物を届け、再度大気圏に戻って太平洋上に帰還するという、9日間の日程を終えたわけだが、スペースXでは今後、ファルコンを再利用型に、そしてドラゴンを有人宇宙船へと作り替える開発を進める予定だ。それが実現すれば、低いコストでのロケット、宇宙船製造が可能になり、一般人の宇宙旅行もますます射程距離に近づいてくる。
すでに、新進の気性に富んだシリコンバレー関係者を中心に宇宙旅行への関心は高まっており、これまで存在もしていなかった新しい産業や関連事業がこれから大きく花開く可能性も高い。それだけに、今回の成功はその発火点として熱い注目を集めているのだ。
“ミダス王”のような起業家、創業者イーロン・マスクとは
スペースXを創業したのは、イーロン・マスク。彼がより広く知られているのは、高級電気自動車会社テスラの創業者、およびCEOとしての顔だろう。2003年にテスラを創業し、電気自動車のロードスターを開発することを発表した際には、世間から眉唾もので見られたものだった。だが、富裕層を中心に次々と買い手がつき、今やテスラは押しも押されもせぬ電気自動車界のスターとなっている。
マスクは、テスラ以前にもソフトウェア開発会社を創業して3億ドルで売却、さらにペイパルを共同創業してイーベイに15億ドルで売却したという経歴の持ち主。触れるものをすべて黄金に変える、ミダス王のような連続起業家というわけだ。現在は、太陽光発電の別のベンチャー企業にも投資中である。
スペースXを創設したマスクには、自分の手で宇宙産業を変えたいという目論みがあった。これまでロケットや宇宙船は国家事業として運営されてきた。だが、アポロで世界をリードしたアメリカも、スペースシャトル時代には事故や資金難に悩まされ、ついに2011年に計画が終了されることになった。
宇宙ステーションに物資を輸送するなどの作業は、その後アウトソースされることになり、それを担う2社のうちの1社として選ばれたのがスペースXである。同社創設に際して1億ドルを投資したマスクは、官僚構造もなく、ほとんどを自前で製造できる低コスト型宇宙開発企業を標榜している。「それが安全性を犠牲にすることは決してない」というのが彼の主張するところだ。同社は現在、宇宙船の有人化にあたって緊急時の脱出方法を確保するための設計などを進めているところだ。
NASAとの巨額契約を前にスペースXの未来を危惧する声も…
スペースXは、マスク自身を含めた投資家からの資金に加え、NASAとの契約による資金で運営している。今回の貨物輸送を含む飛行のために3億9600万ドルを受けているが、これが成功したことによって、今後12回の飛行を対象にした16億ドルの契約をNASAと締結できる可能性も高くなった。さらに同社は、軍事衛星を飛ばすなど、国防総省との契約獲得のためにも積極的に働きかけていると伝えられる。
しかし、潤沢な資金を背景に快走するスペースXの未来を危惧する人々もいる。国の下請けに成り下がって、膨大な官僚主義に絡め取られるのではないかというのだ。
宇宙産業もシリコンバレーのような方法論で実現できることをアピールしてきたマスクだが、国が定める基準を満たし、官僚主義をくぐり抜けようとするうちに、その落とし穴に落ちてしまう危険もあるというわけだ。スペースXは、数年後にIPOを、さらにその数年後にも一般人宇宙旅行を実現しようとしていると言われる。同社の快走が、このままうまく続くかどうかに注目が集まる。
民間企業による宇宙開発はすでに競争激化の兆しが見られる。マイクロソフトの共同創設者のポール・アレン、アマゾンCEOのジェフ・ベゾスも、それぞれに宇宙ベンチャーに投資している。もちろん、ボーイングなどの既存大手企業も、この機会を見逃そうとはしていない。
それでも、イーロン・マスクという人物の動きだけを見ても、IT、電気自動車、環境産業、そして宇宙産業と、アメリカが新しい産業を興すうまいサイクルを手にしていることが伺われる。日本は、そこにこそ注目すべきなのかもしれない。
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2015年12月07日 フリーク・バーミューレン HBR(DOL)
多忙を極めるリーダーは往々にして、ある貴重なものを失ってしまう。それは戦略について熟考するための、十分な時間だ。『ヤバい経営学』の著者バーミューレンが、時間を費やして考えるべき5つの戦略上の問いを示す。
社内の誰かに調子を尋ねると、「おかげさまで、順調だよ」よりも、「忙しい!」という返事のほうが多いことにお気づきだろうか。その理由は、ほとんどの企業では多忙であることを期待されているか、あるいは少なくとも忙しいふりをすべきだとされているからだ。そうしなければ自分の重要性を認識してもらえない。「たいして忙しくないよ」「実は、けっこう時間の余裕があるんだ」といった返事は、社内での地位やキャリアにはあまりプラスにならない。
だが、全社または部門の戦略を統括する立場にある人の場合、常に多忙を極めているというのはいささか問題である。思考と内省の時間が十分に取れないからだ。戦略の検証と策定において、思考は非常に重要な活動だ。
ある大手グローバル銀行のCEOが、かつて私にこう語った。「自分のような立場にある人間は、常に忙しすぎるという状態に簡単に陥ります。必ず出なければならない会議がいつもあり、ほぼ1日おきに飛行機で別の場所に移動する時期もあります。ですが、そのために報酬をもらっているわけではない、という思いがある。自社の戦略について慎重に考えることこそが、私の任務なのです」
まさにその通りであろう。そして彼以外にも、成功しているビジネスリーダーのなかには、考える時間をつくることの価値を理解している人たちがいる。有名な例を挙げれば、ビル・ゲイツは1週間の休暇を年に2回取り、水辺の隠れ別荘で過ごした。何事にも邪魔されずに、マイクロソフトとその将来について熟考することだけが目的だ。また、ウォーレン・バフェットもこう語っている。「私はほぼ毎日、多くの時間を、ただ座って考えることだけに費やすようにしている」
リーダーが考える時間を見つけられない状況は、会社全体や部門やチームの舵取りがうまくできておらず、常に小火を消すのに忙しいということだろう。それは自社を道に迷わせるリスクにもつながる。
経営論の大家ヘンリー・ミンツバーグ教授が述べているように、戦略の大部分は創発的なものである。つまり、計画をただ実行しただけで成立するものではなく、予期せぬ出来事にその都度対応していく結果としてでき上がるものだ。
ビジネスではさまざまなことが起きる。企業はしばしば外部の事象や舞い降りた幸運に対応すべく、顧客や市場、製品やビジネスモデルをめぐり、意図していなかった新たな活動を始める。その際にリーダーは、新たに出現した事態について熟考するために、十分な時間を取る必要がある。体系的に分析し、慎重に考え抜き、必要に応じて調整しなければならない。
だが多くのリーダーは、そのための時間をつくらない。また、たとえつくっていても、十分ではない。
組織のリーダーは、何事にも邪魔されない時間を定期的に、かつ十分長く取って熟考のみに費やすことを、みずからに課すべきだ。その際に、戦略を大局から考えるうえで役に立つ5つの問いを以下に示そう。
1.フィットしていないものは何か?
展開中の一連の活動や事業が、全体として整合しているか自問してみよう。それぞれの活動を個別に見れば有望かもしれないが、それらが相互にうまく作用し合っている理由、総和が各部分の単純和よりも大きい理由を説明できるだろうか。
故スティーブ・ジョブズは魅力的に見える事業を打ち切った時、アップルの従業員にこう説明した。「微視的には理にかなっているが、巨視的には帳尻が合わない」。全体が各部の和よりも大きくなる理由を説明できなければ、その構成要素を再考する必要がある。
2.部外者であれば、どうするだろうか?
企業はしばしば、時代遅れになった製品やプロジェクト、思い込みから脱却できずに苦しむ。従来からやっている物事、または意図的にやってこなかった物事だ。それらの一部は、組織論の専門家が呼ぶ「立場固定(escalation of commitment)」の結果である。何かにコミットして、それを貫くために(おそらく真っ当な理由の下に)必死で取り組んできた。だが今や状況が変わり、もはや理にかなっていないのに、なお執着し続ける場合がある。そこで、こう自問してみよう。「もし外部の誰かがこの会社を経営することになったら、その人物は何をするだろうか?」
インテルのアンディ・グローブは、当時のCEOゴードン・ムーアと戦略について意見を交わしていた時、上記のような問いかけを「回転ドア」と称した。自分たちが外部の人間で、この会社に新たな経営者としてやって来たと仮定する。さて何をやるか、と自問する。そこで出た答えを、自分たちでやればよい。回転ドアから会社の外に出て、もう1度ここに戻り、実行しよう――そう語り合ったのだ。その結果、インテルはメモリーチップ事業から撤退し、マイクロプロセッサに専念することになった。これにより、売上高30%、純利益40%の年成長率を10年以上にわたって維持した。
3.組織と戦略は整合しているか?
1990年、資産管理会社SEIインベストメンツ(当時の時価総額1億9500万ドル)の創設者兼CEOアルフレッド・ウェストは、スキーで事故に遭い3ヵ月間も病院のベッドで過ごすことになった。できることといえば、天井を見つめて、会社の現在と将来について考えにふけることぐらいしかない。そんな状況で彼は気づいた。自社はイノベーションが戦略のカギだと謳っていながら、根本的な組織構造はそれにまったく向いていない。仕事に復帰した彼は、官僚主義を完全に排除し、チーム制を導入し、多くの社内規定を廃止した。これを機に同社の急成長が始まり、いまや時価総額は約80億ドルに上る。
長時間の思考を余儀なくされた結果として、ウェストはすべてのビジネスリーダーがすべきことを実行した。自社の体制は戦略目標にふさわしいかどうかを自問したのだ。組織をゼロから設計できるとしたら、どのような姿になるか考えてみよう。
4.なぜ組織が現在のやり方を採用しているか、自分は理解・納得しているか?
私はケーススタディ執筆などの理由で新しい会社について学ぶ時、その会社の方法論を突き止めるだけでなく、それを採用している理由も探ることを常としている。「なぜ、このやり方で実行しているのですか」とはっきり尋ねると、驚くほど頻繁に次の回答が返ってくる。相手は肩をすくめながら「これが当社の昔からのやり方ですから」と口にして、そして「この業界では誰もがこのやり方でやっています」と言うのだ。
問題は、そのやり方の理由を相手が説明すらできなければ、私はそれが最善のやり方だと納得できないことだ。たとえば10年以上前、英国の某大手新聞社と協働していた私は、「ここの新聞のサイズはなぜこんなに大きいのですか」と尋ねた。すると「高級紙はどこも大型版です。読者は別のサイズなんて望みはしませんよ」という返事だった。数年後、ライバルである『インディペンデント』紙がサイズを半分に縮小すると、部数が急増した。多くの同業他社がこれに続き、同様の効果を得た。そう、読者はそれを望んでいたのだ。
後に、私は次の史実を知った。新聞を大型版で刷る慣行は、1712年にロンドンで始まる。その理由は、英国政府が新聞社に対し、ページ数に基づいて課税することを決めたからだ。新聞各社は対応策として、必要な紙面数を最小限に抑えるために、「ブロードシート」と呼ばれる大きな判型で印刷するようになった。この税法は1855年に廃止されたが、新聞各社は実用的ではない大型版での発行を続けたのだ。
多くの慣行や習慣は、これと似たようなものだ。当初は完全に真っ当な理由で始めたが、状況が変わった後も、企業はそのやり方をただ続けてきた。この問題についてじっくり考える時間を取り、こう自問してみよう。「自分たちがいまだにこのやり方を続けている理由を、自分は本当に理解しているか?」。答えられなければ、間違いなくもっとよいやり方があるはずだ。
5.長期的にどんな影響が生じるのか?
戦略と組織について熟考するなかで自問すべき最後の問いは、主要な戦略行動が長期的にどんな結果をもたらすか、である。私たちは往々にして、物事を短期的な結果で判断する。そのほうがわかりやすいからであり、短期的に望ましいことを行動方針とし続ける。だが多くの戦略行動において、長期的な結果は異なる場合がある。
たとえば、英国で体外受精による不妊治療を行う病院の多くは、治療が比較的簡単な患者だけを選んで受け入れている。その目的は短期的な成功率(治療に対する新生児誕生の数で測定される)を上げることだ。この慣行によって、(最初のうちは)業界の「ランキング表」での好成績をアピールできるため、商業的には理にかなっているように思える。
しかし、私がユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのミハイル・スタンと実施した調査によれば、これは長期的には逆効果になる。貴重な学習機会が失われるため、長い目で見れば相対的な成功率は低下するのだ(英語論文)。
新しい戦略や慣行を始める時には、事前に長期的な影響を測定することは当然不可能だ。しかし、じっくり考えることはできる。たとえば、これらの病院のさまざまな医療専門家たちに、難しい患者を治療することでどんなメリットが考えられるかを尋ねたところ、彼らは学習効果に思い至り、それをかなり明確に述べることができた。つまり、メリットを測定することは不可能でも、慎重に検討することで、長期的に起こりうる結果を行動前に認識できたのだ。ある行動の影響は、短期と長期で異なる場合が多い。したがって腰を据えてじっくり考えなければならない。
戦略とは本質的に、不確実性の下で複雑な意思決定をすることであり、そこにはリアルで長期的な結果が伴う。だからこそ十分な時間をかけて、何事にも邪魔されずに、深く内省し熟慮する必要がある。目の前の状況やビジネスでのさまざまな事象を、ただそのまま受け入れてはいけない。リーダーシップには実行だけでなく、思考も問われるのだ。そのための時間をつくろう。
HBR.ORG原文:5 Strategy Questions Every Leader Should Make Time For September 03, 2015
フリーク・バーミューレン(Freek Vermeulen)ロンドン・ビジネススクール准教授。戦略とアントレプレナーシップを担当。著書にBusiness Exposed: The Naked Truth about What really Goes on in the world of Business (邦訳『ヤバい経営学』東洋経済
【ブランディング】
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(1)エレベーターで衛星打ち上げも!ここまで来た世界の宇宙ビジネス 齊田興哉・日本総研 総合研究部門マネジャー 2015年11月24日 DOL
ヴァージン・ギャラクティック社の「SpaceShipTwo」。世界初の民間宇宙飛行サービスを目指し開発中のスペースプレーン 出所:Virgin Galactic
「H-IIAロケット29号機」打ち上げ(11月24日)、「はやぶさ2」地球スイングバイ(12月3日)、「あかつき」金星周回軌道投入(12月7日)──。これから12月上旬にかけ、日本の宇宙開発において注目のイベントが続く。そこで3回にわたり、「日本の宇宙ビジネス」の現状と今後進むべき道を解説する。筆者の齊田興哉氏は、宇宙航空研究開発機構JAXAで人工衛星の開発プロジェクトに従事した経歴を持つ、宇宙航空事業の専門家である。
本日打ち上げの「H-IIAロケット29号機」は日本の宇宙ビジネスの転換点を象徴
本日11月24日、日本の宇宙ビジネスに関する注目のイベントがあった。カナダのテレサット(Telesat)社の通信放送衛星「Telstar 12 VANTAGE」を搭載した、「H-IIAロケット29号機」が打ち上げられたのである。
このH-IIAロケット29号機は、衛星を静止軌道により近いところまで運ぶことができるよう改良を行ったもので、衛星の燃料の消費を抑えその寿命を長くすることができる。顧客視点に立った“衛星にやさしい”サービスである。これは、世界に対抗するための日本の宇宙ビジネスのあり方をよく表しているニュースだと筆者は考えている。
日本の宇宙ビジネスは、主に政府主導のプロジェクトとして技術開発中心で推進されてきた。それは、技術力で米国、欧州の水準に追い着け、追い越せという目標を掲げてのことに違いない。その活気あふれる様相は、池井戸潤原作でドラマ化された「下町ロケット」にも見ることができる。
努力の甲斐あって、近年、ロケット打ち上げの成功率、人工衛星のミッション達成などに必要な技術力は、欧米と肩を並べる水準にまで達した。結果として現在は、ハードルの高い技術開発の必要性は希薄になり、技術開発を第1優先事項とする宇宙ビジネスは終焉を迎えつつある。
それでは、日本はこれからどのようにして、宇宙ビジネスを展開していくべきなのだろうか。筆者の宇宙航空研究開発機構JAXAでの衛星開発の経験などを踏まえ、3回にわたり世界と日本の宇宙ビジネスの最新動向、そして日本の進むべき路について考察する。
1回目は、まず世界の宇宙ビジネスの最新動向を紹介したい。そこから、日本の宇宙ビジネスが戦う相手の特徴が見えてくる。
大手IT企業創業者が次々と立ち上げ、台頭する数多くの宇宙ベンチャー企業
まず注目すべきポイントは、数多くのベンチャー企業の台頭である(図表参照)。既に宇宙ビジネス業界において、ロッキード・マーティン社、ボーイング社などの世界有数の“老舗企業”と互角の競争力を持つベンチャー企業も存在する。
これらのベンチャー企業は、大手IT企業創業者や出身者によるものが多いのも特徴だ。スペースX(Space X)社はペイパル創業者イーロン・マスクが、ブルーオリジン(Blue Origin)社はアマゾン創業者ジェフ・ベゾスが、ストラトローンチ・システムズ(Stratolaunch Systems)社はマイクロソフト創業者ポール・アレンが立ち上げた。彼らは従来の宇宙ビジネスでは見られなかった、全く新しいビジネスモデル、ITで用いられている開発手法の活用、意思決定のスピード、資金調達力などを強みにして、新しい風をどんどん吹き込んでいる。
◆図表:世界の宇宙ベンチャー企業と創業者
それらのベンチャー企業は何をしようとしているのか、それに対して“老舗企業”はどのような動きを見せているのか。
まず、ロケットの分野での事例を紹介しよう。
ジェット機から打ち上げ、マイクロ波で推進──、斬新なアイデアで大幅にコストを削減
誰も発想しなかった斬新なアイデアで、ロケット打ち上げビジネス展開を狙うベンチャー企業が存在する。ヴァージン・ギャラクティック(Virgin Galactic)社とエスケイプ・ダイナミクス(Escape Dynamics)社だ。
ヴァージン・ギャラクティック社が構想する「ランチャーワン」(LauncherOne)は、輸送用のジェット航空機「ホワイトナイトツー」(WhiteKnightTwo)に搭載される、主に小型衛星に対応したロケットである。ジェット機を母機として打ち上げられるため、ロケットの射場が必要なく、その設備費・運営費などが不要である、衛星のミッションに合わせて最適な場所まで移動して打ち上げられる、天候による打ち上げ延期などが回避できる、そしてそれらによりコストが競合他社の5分の1以下の12億円程度で済む、といった様々なメリットを持つ。
「ランチャーワン」(ロケット)と「ホワイトナイトツー」(母機)。双胴のジェット機の中央に吊り下げられているのがランチャーワン ※動画出所:Virgin Galactic
一方、エスケイプ・ダイナミクス社は、マイクロ波によるロケット打ち上げを検討している。
地上に整備された多数のパラボラアンテナからマイクロ波をロケットに向けて照射することで、推力を発生させる。ロケットの胴体部分に熱交換器が設置されており、照射されたマイクロ波のエネルギーを熱エネルギーに変換し、ロケットに充填されている水素に作用させて推力を得るという構造のようだ。これは従来のロケットに比べて軽量化できるため、より大きく重いペイロードを搭載することができる。
ここで利用するロケットは、スペースシャトルに似た飛行体の構造をしているのも特徴的である。ペイロード分離後は飛行体として帰還する完全再利用型であり、熱交換器などを用いているため構造が非常に単純であることと相まって、低コストなのもメリットだ。
エスケイプ・ダイナミクス社のマイクロ波を活用した完全再利用型ロケット ※動画出所:Escape Dynamics
ヘリコプターでロケット回収、“老舗企業”もコスト削減策で対抗
このような斬新なアイデアで競争力を高めつつあるベンチャー企業に、“老舗企業”も従来型のロケットにおいて、あらゆるコスト削減策で対抗しようとしている。
ULAの次世代ロケット「バルカン」 出所:United Launch
Alliance
ロッキード・マーティン社とボーイング社との合弁会社であるULA(United Launch Alliance)社は、スマート・リユースという方法を構想している。次世代ロケット「バルカン」(Vulcan)の第1段エンジンの回収を、ヘリコプターを使って行うというものである。これによりエンジンコストを90%削減できるという。
また、エアバス・グループのエアバス・ディフェンス・アンド・スペース社は、再利用型ロケット「アデリーン」(Adeline)を発表した。第1段エンジンに翼を装備し、パラグライダーのように滑空飛行で着陸させ回収する。これにより20~30%のコスト削減が期待できるとする。
滑空飛行で第1エンジンを回収する再利用型ロケット「アデリーン」 出所:Airbus Defence and Space
ロケット開発以外の手段で、コスト削減と宇宙ビジネス展開を狙う企業もある。例えば「宇宙エレベーター」だ。
宇宙エレベーターでロケット打上げ、完全民営のロケット射場で効率化
ソステクノロジー社の宇宙エレベーター出所:Thoth
Technology
カナダのベンチャー企業、ソステクノロジー(Thoth
Technology)社は、宇宙エレベーター構想を進めている。同社の宇宙エレベーターは、与圧モジュールを積み重ねて成層圏程度の高度20kmまで達するもので、米国で特許を取得した。成層圏の上からロケットを打ち上げることで、地上での打上げに比べて3分の1程度のコスト削減につながるようだ。
同社は、前出のスペースX社に対し、ロケット打ち上げコスト削減策として、この宇宙エレベータの屋上に垂直着陸型の第1段エンジンを帰還させることを提案しているという。宇宙エレベーター実現の鍵は、カーボンナノチューブ(*)と言われているが、現時点でどこまで研究開発が進み、どれだけ実現可能になったかは不明である。
その他に、ロケット打ち上げサービスについてトータルでコスト削減を実現しようという事例もある。
ロケット・ラボ社の完全民営ロケット射場 ※動画 出所:Rocket
Lab
3Dプリンタなどを活用した打ち上げコスト削減策を打ち出しているロケット企業であるロケット・ラボ(Rocket Lab)社は、完全民営のロケット射場の整備を検討している。従来、官が主導となって行っていた射場の運営が完全民営化されれば、ロケット組立作業の効率化、打ち上げオペレーションの効率化、打ち上げに関わるハードウェア・ソフトウェアを含むシステムの最適化、打ち上げ後の射点の修理・改修の効率化などにより、打ち上げ準備期間短縮やコスト削減が期待できる。
*カーボンナノチューブ:炭素原子が極小の筒状になった物質。様々な特性を持つが、軽くかつ極めて強度が高いため、宇宙エレベーターの素材として期待されている。現在、安価に大量生産する方法を世界で競って研究中。
次に、衛星の分野での事例を紹介したい。
ここでもベンチャー企業が、独自の技術力と大企業からの出資で、世界規模での小型衛星事業の展開を試みているのが目立つ。
数百~数千機の小型衛星群で世界にブロードバンド環境を提供 小型衛星開発のベンチャー企業であるワンウェブ(OneWeb)社は、クアルコム、ヴァージン・グループ、コカ・コーラなどから出資を受け、低軌道に648機もの小型衛星を打ち上げる計画だ。これにより世界のどこからでもインターネットに接続できる環境を提供するという。
ワンウェブの小型衛星。これを648機も打ち上げる ※動画出所:OneWeb
同様の構想をスペースX社も発表した。同社は米国連邦通院委員会(FCC)に小型衛星4000機を打ち上げる壮大な計画を申請している。
これらのベンチャー企業は、光ファイバーなどネットワークインフラ環境が整っていない国や地域へのブロードバンド環境の提供が、大きなビジネスの展開に繋がると考えているようだ。衛星を活用すれば、インフラ整備費用の削減、整備期間の短縮、地震・洪水などの自然災害に影響を受けないネットワーク環境の構築ができる。
また、インフラ未整備の国や地域への新産業や雇用の創出にもつながる可能性がある。実際、コカ・コーラはそうした地域に物流拠点を作り、雇用(特に女性)を創出することを狙って出資しているという。
なお、フェイスブックも同様の構想を打ち立てていたが、少なくとも数百機にもなる小型衛星の製造、打ち上げ及び運用などにかかる資金的な課題から、断念したと推測する。しかし同社は2015年10月、フランスのユーテルサット(Eutelsat)社と提携し、静止衛星「AMOS-6」を活用してアフリカ地域へのブロードバンド環境の提供に乗り出すと報じている。
世界の企業が獲得する衛星事業マーケットが大規模だからこそ、展開できるコスト削減策もある。その事例を見てみよう。
日本の先を行く衛星の共通設計化、コスト削減と柔軟な機能の両立を狙う
衛星の“ミッション系”を汎用化(共通設計化)することで、コスト削減を狙う動きがある。エアバス・ディフェンス・アンド・スペース社は、ユーテルサット社と通信衛星のミッション系汎用化の開発に乗り出すと報じた。
ミッション系を汎用化した新型通信衛星のイメージ 出所:Eutelsat
衛星は、“ミッション系”と“バス系”に分けることができる。ミッション系とは、通信衛星や放送衛星では送受信アンテナ、アンプ、分波合波、データ処理等を含むシステム系、リモートセンシング衛星では光学系、レーダー系、データ処理部等を含むシステム系をいう。バス系は、ミッション系以外の軌道姿勢制御系や推進系、太陽電池パドル系、電源系、信号を処理し地上へ送受信するテレメトリコマンド系等から構成される、衛星の基本動作を司る部分である。
バス系は、世界・日本の衛星メーカーで汎用化されているのが一般的だ。日本を代表する衛星メーカーの三菱電機では「DS2000」というバスが、日本電気では「NEXTAR」というバスが汎用化されている。
一方、ミッション系はこれまで汎用化されてこなかった。衛星のミッション系は、顧客のニーズに個別に応じてカスタマイズされ開発、製造される。少なからず新規技術開発要素を取り入れたいという顧客ニーズがあり、また汎用化するほどマーケットに需要がなかったためだ。
構想されている通信衛星のミッション系汎用化では、アンテナ形状、使用周波数帯域、出力も自由に変更が可能だ。ソフトウェアで対応できる部分もあり、打ち上げ後の運用中に設定変更できるメリットもある。ミッション系の汎用化が進めば、衛星の製造スケジュールの短縮やコスト削減への期待がさらに高まる。
今回紹介した世界の宇宙ビジネスは、ベンチャー企業、老舗企業、どの事例をとってみても獲得しているマーケットの規模をうまく活かしたものであるのが特徴だ。規模がないと実施が困難な事例でもあるといえる。
では、日本はどうだろうか。次回では日本の宇宙ビジネスの最新動向を紹介しよう。
(2)「はやぶさ2」だけじゃない!世界と勝負する日本の宇宙ビジネス齊田興哉・日本総研 総合研究部門マネジャー2015年12月3日 DOL
2015年8月19日、宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機を搭載して打ち上げられた「H-IIB」5号機。日本のロケットの信頼性が国際宇宙ステーションの危機を救った(本文参照)出所:JAXA
小惑星探査機「はやぶさ」は、日本の宇宙開発に対して人々の大きな関心を集め、また勇気をもたらした。本日12月3日は、その後継機「はやぶさ2」が地球スイングバイを行う。これに合わせ、「宇宙ビジネス」を考察するシリーズの第2回目として、日本の注目すべき取り組みを紹介する。筆者の齊田興哉氏は、宇宙航空研究開発機構JAXAで人工衛星の開発プロジェクトに従事した経歴を持つ、宇宙航空事業の専門家である。
本日12月3日、「はやぶさ2」が地球スイングバイを試みる。「はやぶさ2」は、あの「はやぶさ」に続く小惑星探査機であり、小惑星「Ryugu」(リュウグウ)の海水の起源や生命の原材料となった有機物の起源を探ることを目的としている。
スイングバイとは、天体の引力を利用して、目的の惑星へ到達するために探査機の軌道を変更することである。スイングバイ後は、小惑星Ryuguの軌道に近い軌道に入り、2018年夏頃に到着する計画だ。
さて、世界の宇宙ビジネスの最新動向を見た前回に続き、第2回では、日本の宇宙ビジネスの近年の動向と、その特徴を見ることにしたい。
まずは、コスト競争力も含めて欧米と真っ向勝負する事例を紹介しよう。
欧米と同じ土俵で真っ向勝負、低コストの新型ロケットと衛星開発
日本のロケットは、欧米に比べ、マーケットの獲得においては大きく後れを取っているものの、打ち上げ成功確率などを含めた技術力は同水準である。そのため、日本は世界の競合に対して技術力を中心に真っ向勝負を試みている。
宇宙航空研究機構JAXAは、「H-II」シリーズの後継となる新型基幹ロケット「H3」の概要を発表した。現在の主力である「H-IIA」に対し、衛星の搭載能力を、液体ロケットエンジンや固体ロケットブースターの基数により1.3~1.5倍とすることができるという。フェアリングも大型化するということで、大型衛星の打ち上げサービスにも対応が期待できる。
また、設計の共通化などを図ることで、打ち上げ費用を50億円程度と現行よりも半減することが可能であり、世界有数のロケット打ち上げ会社であるULA(United Launch Alliance:ロッキード・マーティンとボーイングとの合弁会社)、アリアンスペース(Arian Space)社やスペースX(Space X)社に対しても十分にコスト競争力を発揮することができると期待されている。2020年には試験機1号機が打ち上げられる計画である。
H3ロケットの概要とイメージ出所:JAXA
衛星についても、ロケットと同様である。やはり欧米に対してマーケットの獲得においては大きく後退しているものの、衛星の設計寿命、ミッション達成に関わる技術力などを活かし勝負している。
三菱重工業は、衛星事業の経験は浅いものの、小型衛星事業に本格的に乗り出すという。小型衛星の開発から打ち上げ、運用までを総合事業化するとともに、小型衛星の運用による情報の収集、提供サービスについてビッグデータ処理を軸に事業化する。
小型衛星は、大型・中型衛星に比べ開発・製造コストを大幅に削減することが可能であり、仕様や信頼性を適切な範囲に設定できる設計コンセプトなどを有していることがメリットである。また、比較的低価格である小型ロケットの活用や他衛星との相乗りによる打ち上げにより、打ち上げコストを大幅に削減することができる。そのため、プロジェクトが失敗した場合の損失も小さくて済む。
小型衛星は様々な価格帯があるが、1機約10億円規模を1つの目安とすれば、民間企業を十分にターゲットにすることができる。民間企業が複数の衛星を打ち上げ、これらが連携するコンステレーション運用(*1)を行い、地上をセンシングするなどして、これを事業に生かす。
このように、世界と同水準のコスト競争力を持つロケットや衛星の開発を、日本も進めている。一方、それとは別の方向で攻める動きもある。
国際宇宙ステーションの危機を救った日本のロケットの高い信頼性
2015年8月19日、宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機を搭載した「H-IIB」ロケット5号機が、打ち上げに成功した。これは、国産ロケットの高い技術力と信頼性を世界に大きくアピールした、非常に大きな出来事であった。
宇宙ステーションは、滞在している宇宙飛行士の食料、科学実験や各種任務のために必要な機材、装置などの物資を定期的に届けることが必要不可欠である。2014年10月、米国のオービタルATK(Orbital ATK)社の「アンタレス」(Antares)、2015年4月、ロシア連邦宇宙庁の「プログレス」(Progress)、さらに6月、米国スペースX社の「ファルコン9」(Falcon9)が、宇宙ステーション補給機を搭載して打ち上げられたが、なんと3回連続失敗となってしまった。
この危機的状況を回避したのが、日本の三菱重工業のH-IIBロケットであった。
「こうのとり」5号機を打ち上げたH-IIBロケット5号機(左)と、国際宇宙ステーション(ISS)にドッキングする「こうのとり」5号機(右)出所:JAXA
日本のロケットは、獲得しているマーケットの規模が小規模ながらも、ここぞという世界の危機的状況という場面で力を発揮し、存在力を高めている。
(*1)コンステレーション運用:一つのミッションを達成するために、複数機の衛星を軌道に投入し、協調して運用すること。
そのほかにも、日本は、世界とは違った“衛星”の視点に立つロケットの改良を進めている。
欧米とはひと味違う新機軸、“衛星にやさしい”ロケット
三菱重工業は8月28日、「H-IIA」ロケットの改良型を公開した。2段目ロケットに改良が加えられ、ロケットの飛行時間を延ばし、静止軌道近くまで衛星を輸送することを可能にする。これにより、衛星に搭載している燃料の消費を抑え、その寿命を延ばすことに一役買える“衛星にやさしい”施策を打ち出した。
第1回でも紹介したが、これはカナダのテレサット(Telesat)社の通信放送衛星「Telstar 12 VANTAGE」を搭載したH-IIA29号機で活用され、11月24日、無事打ち上げに成功した。
H-IIAロケット改良型(29号機)(左)と11月24日の打ち上げの様子(右)出所:JAXA
H-IIAの改良やH3ロケットなどで見られる新しいアイデアと、H-IIA、H-IIBの有する信頼性(高い打上げ成功率)、さらにロケットや地上設備の不具合による打上げ延期の確率が少ないことなどは、日本の大きな強みと言える。
このような老舗企業だけでなく、ベンチャーでも“日本らしさ”を持つ施策を進める企業が存在する。
スポンサーを得て月面探査レースに参戦!ユニークな宇宙ベンチャー企業の登場
ベンチャー企業ispace社率いる「HAKUTO」は、民間組織による月面無人探査を競う賞金総額3000万ドルの国際レース「Google Lunar XPRIZE」(XPRIZE財団主催)に出場する日本チームである。
2016年後半には、HAKUTOチームの月面探査ローバー(写真参照)が米国から打ち上げられる予定だ。
HAKUTOの月面探査ローバー 出所:ispace
HAKUTOを運営するispace社は、日本橋三越本店、丸紅情報システムズと相次いでコーポレートパートナー契約を締結した。三越日本橋本店は、HAKUTOを応援する交通広告の継続掲載を行うほか、月面探査ローバーを操縦できる参加型イベントを実施している。丸紅情報システムズは3Dプリンタと3Dスキャナの技術の支援を行う。Zoffと日本航空ともコーポレートパートナー契約を締結した。
同社のビジネスモデルは、Google Lunar XPRIZEという賞金レースに出場するHAKUTOに対して、企業からスポンサー契約を得るものだ。このビジネスモデルはF1レースに類似している。F1カーと同様、月面探査ローバーという技術力を結集した魅力のあるハードウェアやコンテンツを軸に、様々な企業からスポンサー契約をしてもらい、レースに挑み賞金獲得を狙うのである。一方、スポンサー企業はそのハードウェアやコンテンツに紐付けて自社の広告・宣伝を展開し、ブランディング、イメージアップなどを図る構造である。
宇宙ビジネスの多くは、大きな資金を必要とすることから、なかなか参入が難しい。HAKUTOが展開するビジネスモデルを真似たり、応用したりする企業が多く出ることを期待する。
“宇宙ゴミ”を除去してクリーンに!スペースデブリ対策に取り組むベンチャー企業
アストロスケール(ASTROSCALE)社は、数多くのスペースデブリ(*2)が存在する宇宙環境をクリーンにするという、社会貢献度の高いビジネスを構想するベンチャー企業だ。
コンセプトは、母機となる衛星から子機の小型衛星を射出し、除外対象の大型デブリに接着させて軌道を変え、1日程度で大気圏へ突入、燃え尽きさせるというものである。2017年に実証実験機打ち上げを予定しており、2016年後半には前段階として微小デブリ計測衛星を打ち上げる計画だ。
スペースデブリの数は膨大であり、自国、企業が保有する衛星を保護したいという観点からビジネスの成立性はあるようだ。妨害する衛星を見付ける、追跡する、他国の衛星の動作からミッションを推定する、といった国の安全保障面でのビジネス展開も考えられる。
デブリ対策衛星の実証実験機(左)と将来構想(右)。母機の衛星(Mother)からから子機(Boy)を射出する出所:ASTROSCALE
(*2)スペースデブリ:役割を終えたり故障したりした衛星・ロケットやその部品、破片などの「宇宙ゴミ」。非常に高速で地球周回軌道を回っており、微小な破片でも人工衛星や宇宙ステーションに衝突すると大きな被害をもたらす。各国の宇宙利用の拡大とともに急増しており、大きな問題となっている。
さらに衛星関連では、日本の大企業でも、技術力の高さで製品を一新させたり大幅な改良を重ねたりして、世界へアピールしようとしている。
小型化、緻密さ、正確さ、“日本らしい”技術力でビジネス展開
キヤノンは、実用的「Geイマージョン回折格子」の開発に成功したと報じた。これは天文台などに設定されている大型望遠鏡を衛星に搭載できるサイズまで小型化できる技術である。
キヤノンによれば、天文台の大型望遠鏡に搭載されている高分散の赤外線分光器と同等の性能を持ちながら、分光器の体積を約64分の1まで減らすことができる。リモートセンシング衛星(*3)で高い分解能の画像を得るためには、回折限界などから光学系や分光器が大きな構造物となるのが実情であるが、この技術は、赤外線の周波数領域で活用するリモートセンシング分野に大きなインパクトを与えそうだ。
キヤノンが開発した「Geイマージョン回折格子」。超精密加工技術により大幅な小型化を実現 出所:キヤノン
また、シャープは、移動体衛星通信の低コスト化と信頼性向上に貢献する新型フラット型衛星アンテナを、米国カイメタ(Kymeta)社と共同開発すると報じた。船舶、飛行機、車両などに搭載されている衛星用アンテナは、回転機構により衛星からの信号を受信する可動式であるのが一般的であるが、このフラット型衛星アンテナは、可動構造なしにそのままの状態で設置すれば衛星からの信号を受信できる。構造が簡素化でき、小型で、高信頼性であるのが特徴である。
日本の技術力の特徴ともいうべき“緻密さ”、“正確さ”を活用して宇宙ビジネスを展開する企業もある。
カーナビゲーションにも見られるように、所在の位置情報の推定には衛星は必要不可欠である。GPS衛星などの測位衛星からの送信される信号を活用して、所在の位置情報を高精度に推定することができる。
これに関し、パナソニックは、タブレットPC「TOUGHPAD」に内蔵するための高精度測位システムを開発した。1周波RTK-GNSS機能を活用して、条件により10cm程度の精度で測位が行えるという。また、従来にはなかった容易に可搬できるタブレット型であること、CPUとメモリーにより測位時間を大幅に短縮できること、などの特徴を持つ。
この高精度測位システムは、高精度で自動運転が可能となるため、豪雪地帯の除雪作業やスマート農業などに活用できる。2015年12月には北海道岩見沢市で除雪作業の実証実験を行う予定だ。
(*3)リモートセンシング衛星:各種センサーを搭載し、地表や大気、海面の状況などを観測する人工衛星。気象観測、土地利用や水産業の管理、災害状況把握、資源探査、地図作成など利用範囲は広い。気象衛星や軍事用の偵察衛星もその一種。
自動運転車も衛星と不可分、日本の技術力をアピールする機会に
また、2015年5月にZMP社とディー・エヌ・エー(DeNA)社は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに自動運転無人タクシーの実用化を目指すことを発表した。
さらに相次いで、三菱電機、トヨタ自動車、日産自動車が自動運転車の実演などを公開した。これらが測位衛星を活用するものであることは間違いなく、日本の「準天頂衛星」(*4)を活用したセンチメートル級測位技術を、世界にアピールするものになるだろう。また、そうした高精度測位技術から派生するカメラ、レーダー、センサー系のマーケットの成長も見込める。
まだ法整備など課題は多いが、実現されれば既存のサービスの拡充、新サービスの創出が多くなされそうだ。
準天頂衛星初号機「みちびき」 出所:JAXA
(*4)準天頂衛星:日本版GPS衛星である(GPSはもともと米国の軍事用システム)。日本を含むアジア・オセアニア地域において測位サービスを行う。2010年に初号機が打ち上げられたが、2018年にはGPS衛星と一体運用を行う4機体制が確立する予定。将来的には7機体制を整備し、GPS衛星に頼らず準天頂衛星のみで測位サービスを可能とする自律測位を実現することが計画されている。
今回は、日本の宇宙ビジネスの最新事例を紹介した。前回見たように、世界の企業の宇宙ビジネスは、獲得しているマーケットの規模をうまく活かしたものであるのが特徴だ。これに対し、日本の場合は、マーケットの規模が小規模ながらも、うまく世界のなかでポジショニングを獲ろうというものだと言える。
日本の宇宙ビジネスは、今まさに転換点にある。次回は、その課題を整理し、世界と戦うためにどのように進んで行くべきか検証したい。
(3)このままでは世界に勝てない。日本の宇宙ビジネスが抱える弱点齊田興哉・日本総研 総合研究部門マネジャー2015年12月7日 DOL
12月7日、金星軌道投入に再挑戦する金星探査機「あかつき」(想像図)出所:JAXA
宇宙航空研究開発機構JAXAで人工衛星開発プロジェクトに従事した経歴を持つ筆者が、「宇宙ビジネス」を考察するシリーズ第3回。最終回の今回は、日本の現状と課題を整理し、その解決策と進むべき途を見る。
本日12月7日も、宇宙に関して大きなニュースがある。金星探査機「あかつき」が、金星周回軌道への投入を再度試みる。「あかつき」は、金星の大気の動きを観測することを目的に2010年5月21日に打ち上げられ、ちょうど5年前の同年12月7日に金星周回軌道への投入を試みたが、これに失敗した。しかし今度は、不具合が発生している主推進エンジンは使わず、姿勢制御用エンジン8本のうち4本を使用して金星周回軌道投入へ再挑戦するのである。
「日本の宇宙ビジネス」の進むべき途を考察するこのシリーズの、第1回では世界の最新動向、第2回では日本の最新動向を紹介した。第3回の今回は、日本の課題、そして解決策を見ていこう。
米国の宇宙予算規模は15倍、日本と世界の大きな隔たり
日本と世界の宇宙ビジネスを比較したとき、どれくらい差があるのかご存じだろうか。まず、宇宙予算の規模をご覧いただきたい(図表1)。
年によるばらつきはあるが、2014年度の宇宙国家予算では、米国約5兆円、欧州約6000億円、ロシア約5000億円、日本は約3000億円の規模である。米国の予算は日本の約15倍、欧州は約2倍、ロシアは約1.7倍だ。主要国の宇宙予算と、日本のそれには大きな隔たりがあることがわかる。
◆図表1:日本と世界の宇宙国家予算の比較(2014年度)
*欧州は、欧州気象衛星機構(EUMETSAT)、欧州の軍関連の宇宙予算、フランス国立宇宙研究センター(CNES)、ドイツ航空宇宙センター(DLR)、イタリア宇宙機関(ASI)、スペイン国立航空宇宙技術研究所(INTA)、イギリス宇宙局(UKSA)などの予算を考慮している事例もあるが、欧州宇宙機関(ESA)の予算とした。1ドル120円で換算。出所:The Space Reportなどから日本総研作成
次に、日本と世界のロケット打ち上げ機数のデータをご覧いただきたい(図表2)。
ロシア、米国は、年間約20~30回のロケットの打ち上げ機会を有している。つまり、1年間52週とすると、2週間に1回程度ロケットが打ち上げられている計算になり、非常に高頻度であることが理解いただけると思う。一方で、日本のロケット打ち上げは年間1、2回程度、2014年のような多い年で4回というのが実情である。
◆図表2:世界のロケット打ち上げ機数の比較(2014年度)
*( )内は世界の打ち上げ機数に占める割合
出所:科学技術動向研究センター「2014年の世界の宇宙開発動向」から日本総研作成
米ヴァージン・ギャラクティック社はジェット機からロケットを打ち上げるという斬新な手法を開発中 Photo:Virgin Galactic
欧米、ロシアの宇宙関連民間企業は、このように潤沢な国家予算の活用や事業の機会に恵まれ、コスト競争力や人材育成などの好循環が生まれる環境下にある。そのため、第1回で紹介したような、日本では真似することができない宇宙ビジネスの事例、“力技”の施策が実行可能となるのである。
現状、日本が欧米と同程度の予算規模を確保することは、困難と言ってよい。さらに、日本は宇宙開発において欧米、ロシアに比べ後発であり、既に世界の市場はそれらの国々によって囲い込みが行われてしまっているのが実情である。
転換期にある宇宙ビジネス、変われない日本の実情
日本の宇宙ビジネスは、主に政府主導のプロジェクトとして、技術開発を第1優先事項として推進されてきた。現在も、マーケット需要の大部分を官が占める“官需中心”の構造だ。
だが、技術競争力においては欧米とほぼ同等となり、この“技術開発オリエンティッド”の宇宙ビジネスは終焉を迎えつつある。そして、世界では第1回で見たように、ベンチャー企業の台頭と民間事業の拡大・多様化、コスト競争力の重要性の拡大など、状況は様々に変化している。
日本は今まさに、宇宙ビジネスの方向を変えるべき転換期にいるのである。しかしながら、大きく変わらないまま従来の延長線上にいるのが実情であろう(図表3参照)。
◆図表3:日本の宇宙ビジネスの変遷
日本の宇宙ビジネスが変われない、その理由は何だろうか。筆者の宇宙航空研究開発機構JAXAでの衛星開発の経験やコンサルティングの経験を踏まえ、以下の3つを挙げたい。
(1)民間企業が政府依存体質であること
(2)日本の宇宙ビジネスが閉鎖的な構造であること
(3)民間企業が宇宙ビジネスを展開する上で具体的な戦略、戦術が不明であること
この3つの課題を挙げた根拠について、示していこう。
日本の宇宙ビジネスは政府主導で行われてきた。写真はH-IIAロケット試験機1号機打ち上げ(2001年8月29日)出所:JAXA
先述の通り、日本では従来より、性能を追求する技術開発が政府主導で実施されてきた。政府が、米国・欧州で計画されている、もしくは実績のあるロケットや衛星の、最先端の技術動向について情報収集し、日本で取り込むべき、あるいは取り込むことが可能な技術を決定し、仕様として落とし込む。民間企業はその仕様に基づき、開発を進める。欧米に追い付くために必要な技術開発要素が数多くあったことから、この開発スタイルが長年継続されてきた。
結果として、民間企業はおのずと提案型ではなく受身型の仕事が多くなり、現在の政府依存体質が構築されたと考えている。
また、宇宙に関わる技術情報は非開示扱いとなることが多く、加えて性能を追求する技術開発スタイルでは、その技術を把握する企業のみが事業を担当するため、関係する企業も限られる環境となる。そうした環境下で長年、検討や調整が行われたことにより、閉鎖的な構造となっていったと推測する。
さらに、失敗の許されないロケットや衛星の技術開発において、リスク管理上、成功実績のある設計やプロジェクト運営・管理手法の経験などが踏襲され、変更することはありえない形となった。
しかし、欧米と同水準の技術を保有したことにより、技術の性能追及の必要性が希薄になり、ビジネスとして展開することがより重要な時代になった今、こうした政府依存型の民間企業や閉鎖的な業界構造が大きく変われないままで、どのように宇宙ビジネスを進めるのか、不明瞭な印象を持つ。
政府依存と閉鎖的構造を打破しコスト削減のための技術開発を
これらの状況を打破する、解決策はないのだろうか。
(1)の民間企業の政府依存体質、(2)の閉鎖的構造については、主に民間企業のマインドによるところが大きい。しかし、マインドを変えるのは容易ではない。まずは、新しい考えや文化を取り入れることが重要だ。
そのためには、技術部門はもちろんのこと、営業・企画部門についても、他業界との人材交流や登用などを積極的かつ柔軟に実施していくべきであろう。それも個人で行うのではなく、採用制度、人事評価制度、教育プログラムなどを制度的に整備し、組織的にある程度、強制感を持って実施する必要がある。これは、民間企業にとって手間はかかるが有効な策ではないだろうか。
これにより、民間事業に必要な、事業性を第1優先に考える“ビジネスオリエンティッド”な思考の強化、事業における意思決定力やそのスピード力の向上、提案型のビジネス展開、さらには、企業の事業部間、企業間のチームワーク力などが強化されるだろう。
(3)の戦略・戦術の不明については、端的に言えば事業戦略を立てることに尽きる。例えば、以下のことが言えるのではないか。
1.性能追及型の技術開発に加えて、コスト削減のための技術開発が必要である。
新型基幹ロケット「H3」(イメージ)出所:JAXA
技術水準が欧米と肩を並べることができた現在、ビジネスとして展開するためにはコスト競争力を高めることが重要である。例えば、設計、開発、製造、試験、審査、運用などの各工程で、民間事業として最適化できるポイントを徹底的に検討し、大きな設計変更を伴わないようハードウェア、ソフトウェアや工程などを含めたコスト削減に関連する技術開発を、今まで以上に注力して行う必要があると考える。
第2回で紹介した、JAXA等が進める「H3」ロケットの開発は、まさにコスト競争力を高めることを主眼としたものだ。このような取り組みをロケットのみならず、衛星、地上システム(ロケットや衛星を追尾したり信号を送受信したりするための装置系)、さらには、宇宙に関わる装置・機器、部品のレベルまで広げる必要がある。
“日本らしさ”で差別化し新たなマーケットを開拓する
2.技術およびサービスに“日本らしさ”を取り入れた差別化、付加価値化の方策が必要である。
国家予算、ロケットの打ち上げ数など、欧米と前提条件が異なるなかで、マーケットシェアの獲得は現時点では難しい。日本は、“日本らしさ”での付加価値化、差別化を図るべきと考える。
カナダ・テレサット社の通信放送衛星を搭載して11月24日に打ち上げに成功した“衛星にやさしい”改良型ロケット、「H-IIA」29号機の事例は、まさにこれを象徴するものではないだろうか。
その他、同じく第2回で紹介したキヤノンの実用的「Geイマージョン回折格子」の開発、シャープの「フラット型衛星アンテナ」、パナソニックの「高精度測位システム」も、良い事例だ。これらには、高い技術力を応用した小型軽量化、信頼性向上など、日本の緻密さ、正確さを強みとした、世界とは異なる付加価値化、差別化の形が表れている。
3.まだマーケットとして拡大の余地のある、宇宙を利用したビジネスへいち早く参入する。
宇宙を利用したビジネス展開の重要性について、近年日本では盛んに言われている。宇宙利用という言葉の定義が広く曖昧ではあるが、大きく以下の3つのケースがあると考えている(図表4)。
◆図表4:宇宙を利用したビジネス
これらはビジネスとして多様性に富んでおり、まだマーケットの規模も確立していない。こうした宇宙を利用したビジネスは、日本の“老舗企業”に限らず、他業界の民間企業の参入も十分可能な領域となり得る。
日本版GPS衛星である準天頂衛星初号機「みちびき」(イメージ)出所:JAXA
従来のロケット・衛星マーケットのように、欧米・ロシア先発による囲い込みとならないよう、日本先発のマーケットとして展開していくことも重要である。これにより、宇宙と関連しなかった業界、企業にもビジネスチャンスが生まれる可能性がある。
三菱電機などが進める自動運転技術は、準天頂衛星のセンチメートル級測位サービスを活用したものであり、加えて派生する各種センサー、画像処理、人工知能などのビジネス展開も期待できる(第2回参照)。これも宇宙を利用したビジネスを象徴するものである。
欧米と同じ土俵で勝負するのではなく日本特有の宇宙ビジネスを展開すべき
「米国・欧州に追いつけ、追い越せ」と真っ向勝負を挑み、勝利せよという世論が少なからずある。しかし、冷静に考えてみれば、米国、欧州などに対して同じ土俵で勝負する必要があるだろうか。
予算や人員が潤沢な米国、欧州が実施する、“力技”の施策に対して勝負するのではなく、今回示した“日本らしさ”を活かし、異なる土俵でビジネスを展開する。そのほうが重要であり、日本特有の付加価値のある宇宙ビジネスを世界にアピールすることが可能であると考える。
そうして初めて、米国、欧州、ロシアに何らかの形で対抗する基盤が出来上がるのではないだろうか。
日本人が「不確実な世界」でビジネスを成功させるための3つのポイント週刊ダイヤモンド編集部 2015年11月26日 DOL
スイスに本拠地を置くIMD(International Institute for Management Development)は、企業のエグゼクティブを対象とする教育にほぼ特化しているビジネススクール。しかも、多くのビジネススクールで多用されるケーススタディ(過去の事例研究)だけに頼らず、教授陣は教育手法のダイバーシティを進めており、目の前の問題解決にエグゼクティブと一緒に取り組む。2冊目の共著を出したばかりのテュルパン学長に話を聞いた。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部 池冨 仁)
――将来、日本の企業は否が応でもグローバル化と向き合わなくてはならない流れにあります。そこで、これまで以上にダイバーシティ(視点の多様性)という言葉の重要性が高まってきています。しかし、日本ではダイバーシティと言えば、「女性の管理職登用」に留まっている企業が少なくありません。欧州を代表するビジネススクールのIMD学長として、テュルパンさんはダイバーシティという言葉をどのように説明していますか。
ドミニク・テュルパン(Dominique Turpin)1957年、フランス生まれ。ESSCA経営大学院を卒業後、日本に渡る。上智大学で経済学博士号を取得後、IMD教授となり、四半世紀にわたって世界各国の企業に対する教育や調査・研究に従事する。専門はブランド・マネジメントとコミュニケーション戦略。長年、日本企業のグローバル化支援と幹部教育などに携わってきた。2010年7月より、IMD学長に就任し、世界各地を飛び回る日々を送る。奥様は日本人で、スイスのローザンヌに在住。Photo by Shinichi Yokoyama
ダイバーシティという言葉を語る上で、面白いエピソードがあります。
ノルウェーの探検家ロアルド・アムンゼン(1872年~1928年?)と英国海軍のロバート・スコット(1868年~1912年)の間で繰り広げられた「人類史上初の南極点を目指した到達競争」です。最終的には、1911年にアムンゼンが先に到達しますが、2人の物語を通じてIMDの同僚でイノベーションの研究と教育に取り組むビル・フィッシャー教授は「同じ知性を多く集めるより、異なる知性を多く集めたほうがよい結果が出せる」という教訓を導き出しています。
アムンゼンとスコットの成否を分けたものは、何だったのでしょうか。フィッシャー教授は、次のように説明します。「資源に恵まれなかったアムンゼン隊はさまざまな相手に情報を求めました。なかでも、グリーンランドに住むイヌイットたちからは、彼らの衣服や装備、食事について学びました。目指す南極は、北半球にあるグリーンランドから遠く離れた場所にありますが、南極と同じように寒く過酷な気候のなかで生活しているイヌイットたちが何を身にまとい、何を食べているかに着目したのです」。結果、アムンゼン隊は、スコット隊より5週間早く南極点に到達しました。往復3000キロメートルの長旅を終えた時に、アムンゼン隊のメンバーは出発前より体重が増えていたそうです。一方でスコット隊のほうは、飢えと寒さに苦しめられてベースキャンプに戻ることができず、遭難して全員が死亡してしまいました。
2012年に出た『なぜ、日本企業は「グローバル化」でつまずくのか』は、日本人のビジネスパーソンが直面する現実的な諸問題を扱っており、現在も好調に版を重ねている。その続編となる2015年の『ふたたび世界で勝つために』では、さらに具体的な「では、どうすればよいのか」という点にフォーカスしている
詳しくは、新刊の『ふたたび世界で勝つために』で紹介していますが、それぞれのチームが準備期間中に「誰と話していたか」が問題だったのです。アムンゼンは極寒の地で生活するイヌイットたちと話していましたが、スコットは自分と同じロンドンに住む人たちと話していました。このエピソードは、同じ知性(情報、見方、考え方など)を多く集めるより、異なる知性を多く集めたほうが、よりよい判断や意思決定に達する可能性が高まるということを教えてくれます。異なる知性と出会い、話をすることは、未知の環境下でも機能する尖ったアイディアや優れた意思決定にたどり着くための有効な手段なのです。
――近年は、世界のビジネス界で、よく「VUCA(ブカ)ワールド」というフレーズが使われています。VUCAとは、何を指すのですか。
もともとは軍事用語だったそうですが、VUCAとは、「volatility」(変動が激しく不安定)、「uncertainty」(不確実性が高く)、「complexity」(複雑で)、「ambiguity」(曖昧な)の頭文字をつなげたもので、まったく予測がつかない未知の世界を指しています。1911年の南極は、正にVUCAワールドでした。
翻って現在、私たちの身の回りにもVUCAワールドはあります。例えば、世界中を巻き込む金融危機が起きたり、原油価格や為替が大きく変動したり、テロ攻撃や紛争が続いていたりしています。さらに、インターネットで世界がつながった状況では、これら一つひとつの出来事は単純に切り離せるものではなく、複雑に相関しているなど“予測できない事態”が現出しています。
グローバル化とは「多様性と相互依存性が生み出す複雑性である」とも定義できるでしょう。かつては局所的だった出来事が、今では即座に他の出来事とつながり、思わぬところに思わぬ影響を及ぼすようになっているのです。
自らのアンテナで探す次世代の有力企業候補
――確かに、世の中は複雑性が増し、先が読めなくなっています。世界経済が相互にリンクしているなかでは、日本だけ切り離して「例外」と主張することは困難になっています。そのようなVUCAワールドで、不確実性に対処していくために、日本人のビジネスパーソンはどうすればよいのですか。
そのためには、私は3つのポイントがあると考えています。
IMD学長としてのチャレンジには、「世界中から優秀でタフな教授陣を集めること」を挙げる。研究者としてアカデミックな能力を持っているばかりでなく、百戦錬磨のエグゼクティブたちを相手にしながら、インパクトを与えてクラスを運営するファシリテーション能力までを含むもので、非常にハードルが高い Photo by Shinichi Yokoyama
まず、①自分あるいは自分たちの事業や企業の「強み」と「弱み」を再認識し、再定義することがあります。次に、②積極的に情報に接して、「脅威」や「機会」を見出します。さらに、③いずれにせよ起こる「思いがけない出来事」に対しては柔軟に対応していくことです。
特に大切なのは、2番目の積極的に情報に接するということで、「広い視野」(ビッグピクチャー)で物事を捉えることです。そのためには、「今、私たちがいる居心地のよい世界」(コンフォート・ゾーン)から飛び出す勇気を持つことです。ビジネスに例えると、思わぬ競合の存在が無視できなくなるほど台頭が目立つなど、競争環境の激変に気付いてから情報を集めようとしても手遅れになるリスクがあります。ですから、あらかじめ脅威を予見し、手を打っておく必要があるのです。あるいは、集めてきた情報のなかから、脅威ではなく機会(チャンス)を見つけるなどして、新たな機会を捉えるためのヒントを得たりすることも重要になってきます。
心地よい世界から飛び出すことは、口でいうほど簡単なことではありません。
そう言えば、数年前にシンガポールで次のような光景を見ました。ほぼ全員が初対面の外国人同士という世界各国のCEOが集まる会合で、日本人CEOの多くが外国人CEOに話しかけることなく、日本人同士で固まっていました。でも、各国のCEOが集まる場であることを考えれば、彼らと話をすることで日本人同士の会話では得られない大きな発見があったかもしれません。
なぜなら、国が違えば、日常的に接している情報も見ている角度も違うものだからです。例えば、日本である一定の解釈や評価がなされている事象でも、彼らはまったく異なる視座から見たり考えたりしているかもしれないからです。もし、ダイバ-シティのメリットを自覚して行動することで心地よい世界から抜け出すことができたら、どうでしょうか。しかも、それを苦しみではなく、楽しみや喜びに変えることができたら、どうでしょうか。これからのビジネスにおいては、そういう行動が大きな分かれ目になってくるでしょう。
――現在の曖昧模糊としたVUCAワールドで、自ら居心地のよい世界を飛び出してビジネスを成功させている企業はありますか。
一例を挙げると、「ハワイアナス」があります。これは、1962年にブラジルのアルパルガタス社で生まれたビーチサンダルのブランドで、最初の20数年間は機能性を重視した安価なサンダルの生産に特化していました。その分野で成長を続けてきましたが、1990年代に入ってから大きな停滞期を迎えました。中国などの新興国が、さらに安い競合のコピー商品をぶつけてきたのです。
そこで、アルパルガタス社は、薄利多売のビジネスモデルから、真逆のポジションであるビーチサンダルのプレミアム・ブランド化に取り組み始めました。その際、特別な新素材を開発したのではなく、過去にほとんど手をつけていなかったマーケティング活動に本腰を入れることにより、ブランドを再構築したのです。今では、世界中で知られるセレブリティが愛用するなど、感度の高い若者たちの間では知られたブランドであり、東南アジアのタイでは他のビーチサンダルの約8倍というプレミアム価格で売られています。アルパルガタス社が、いかにしてブランドを再構築したのかについてはぜひ2冊目の『ふたたび世界で勝つために』を読んでください(笑)。
この本では、ハワイアナスに限らず、自分で世界各地を回って見つけてきたユニークな事例の数々が紹介されています。学長になる前は、マーケティング・ガイ(マーケティングの先生)だったので、今でも無意識のうちにアンテナを張りめぐらせて、次世代の有力企業候補を探し求めているのだと思います。
ケーススタディに頼らず目の前の問題解決を重視
――ところで、世界のビジネススクールのなかでもトップクラスに入るIMDですが、どのような特色を持った教育機関なのですか。
まず何よりも、現実にビジネスの世界で直面する事象と向き合い、それらの困難を克服しながら活躍できる経営幹部の育成に注力してきたという点で、他のビジネススクールと大きく異なっています。米国のビジネススクールのように、大学を出て数年で入学するMBAは、IMDでは年間約90名と小規模です。IMDの事業の約95%は、世界中から集まる40代~50代が中心の企業のエグゼクティブに対する教育(グローバル・リーダーの育成)です。米国などの他のビジネススクールは、大規模なMBAと小規模なエグゼクティブ教育という構成ですが、IMDではまったく逆です。
IMDのルーツは、スイスのアルカン社とネスレ社の企業内人材育成機関にありますが、現在では独立したグローバルな教育機関として運営されています。毎年、約100ヵ国から8000名以上の経営幹部が集まり、国籍が34ヵ国以上のIMDの教授陣が、企業のエグゼクティブと一緒になって、目の前にある問題解決に取り組みます。米国のMBAコースで多用されるフレームワークの解説に頼ることなく、エグゼクティブが自分で正しい解決策を導き出すサポートに徹する、と言ってもよいかもしれません。ですから、教授陣も真剣です。
エグゼクティブ向けのコースは、20種類以上の短期公開プログラムや、個別企業の目標に合わせて設計するカスタマイズ・プログラムなどもあります。
―― 一般的に、米国のビジネススクールでは、参加者の約70%が米国に在住する米国人で、残りの約30%が海外からの参加者といわれています。
はい。IMDのプログラムでは、スイス人がゼロということもあります(笑)。
米国のビジネススクールと比較すると、IMDは実践的なナレッジの獲得に主眼を置くことから、必要に応じて一般的なケーススタディを使っていますが、シェイクスピア劇の舞台俳優を招いてエグゼクティブとしての立ち居振る舞いの勘所を聞いたり、アルプスの山に登って自らのリーダーシップの成長過程を振り返ったり、多国籍のグループで新興国を歩いてみたりするなど、教育のダイバーシティも進めています。
また、米国でよく知られているグローバル企業ばかりを扱うことなく、現実のビジネスで起きている動きについて研究していますので、地球規模のパースペクティブ(大局観)が得られます。例えば、流通・小売業では、米国のウォルマートやKマートに限らず、フランスのカルフールや英国のテスコ、日本のイトーヨーカドー、その他新興国での動きまで追いかけています。何か面白い企業があれば、異なる専門分野の教授同士が連携して分析しています。
ネット上の動画はハリウッド仕込み
――少し、個人的な話を聞かせください。テュルパンさんは、フランス生まれのフランス人でありながら、なぜ1981年に日本の大学に留学して勉強しようと考えたのですか。というのも、当時は、その少し前にハーバード大学のエズラ・ボ-ゲル教授が執筆した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が世界中でベストセラーになるなど、欧米で日本の経営モデルや文化に関心が集まっていた時期でしたが、それでも日本に行くのは“変わり者”だったはずです。
ははは。
そうですね、そういう時期でした。実は、1978年にフランスの企業から頼まれた市場調査で来日したことがあるのですが、日本の戦後復興とその後の驚異的な経済成長には私も大きな衝撃を受けていましたし、当時はまだ世界でよく知られていない国だったことから、大きな関心を持っていました。地理的にも大陸から孤立した格好で、経済発展の過程は他のどの国とも違っていました。
私は変わり者だったというより、未知なものを探検したいと考える好奇心が旺盛な27歳の青年だったといったほうが正確でしょう。でも、不思議なもので、日本に留学したという珍しい経験を持っていたことが、後にダイバーシティを尊ぶIMDで職を得ることにつながりました。日本は、妻の祖国でもあります。
過去に世界で主流となった経営モデルの変遷を振り返ってみると、1960年代は米国式の管理型経営、1970年代はドイツやスウェーデンの社会契約型経営、1980年代は良識に基づいた日本式経営を学ぶことが、ビジネスで成功する近道のように考えられていました。1980年代前半の日本は、まだバブル経済になる前で、家電メーカーのソニーなどは固有の技術を消費者製品に転換させることにより国内外で成功していましたし、広告会社の電通も海外M&Aを模索していました。当時は、社会全体に“世界に打って出る”という気概がありました。
――現在、世界のビジネススクールではインターネット上のプラットフォームを利用した取り組みを始めています。IMDは、どんなことをしていますか。
すでにIMDのオンライン・プログラムはいくつかありますが、例えば次のような取り組みも始めています。冒頭のアムンゼンとスコットの話で話題に出たフィッシャー教授のプレゼンテーションが、YouTubeにアップされています。
これは、実際に企業に販売している「Global Leadership in the Cloud(GLC)」というオンライン・プログラムの一部を抜き出した動画です。映画みたいで驚きませんか?
IMDには、情熱的で優秀な教授が揃っていますが、カメラの前でプレゼンすることが平気な人とそうでない人がいます。つまり、私たちにとって居心地のよい世界から飛び出していく取り組みの1つでもあるのです(笑)。
この動画は、IMDが自信を持って提供しているプログラムの様子を知ってもらうべく、米国のハリウッド(映画産業)で働いた経験を持つ女性の専門家に最も効果的な特殊効果を考えてもらったり、専任のスクリプト・ライターに言葉の使い方をチェックしてもらったりしています。伝えるための工夫ですね。
GLCの実際のプログラムは約8週間で、毎回、動画が送信され、課題が与えられます。私たちはストーリー性を持たせた内容の深さに絶大な自信を持っていますが、動画がコンパクトに15分以内にまとめられたことにも理由があります。忙しいエグゼクティブが動画に集中できるのは、15分以内が限界ですし、飽きさせることなく、最後まで楽しんでもらうことも学習効果を上げるためには大切です。
世の中には、ビジネススクールの教授陣は学究肌でコンサバティブな人が多いという印象があるかもしれませんが、IMDは違います。エグゼクティブの問題解決に役立ちそうなツールであれば、積極的に取り入れていきます。
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